花のかたち(2)

仏塔と胎蔵

八木橋司 1995年


<Part4>


4 ガルバの理念

我々が最初に「花のかたち」の構造の存在を確認したのは、「カトゥラー出土仏坐像」においてであ
った。しかし、それをさかのぼる紀元前のストゥーバ時代の造形者たちによって、既にその存在と意
義が明確に把握きれていた事実は、ここまでの検証でほぼ示し得たと考える。今回の考察の最後
に、我々はこのストゥーバの造形に関しての最も重大な作例群の解析から明らかとなる、ストゥーパ
で確立を見た一貫した理念から、大乗の「成仏の理念」への転換のかなり明確な足取りを示し得る
であろう。


■蓮華の女神

サンチー第二塔からバールフットにわたって受け継がれた重要な主題が、蓮華の中央に立つヤクシー
の図像である。図版17はサンチーの作例である。例の五角形左右上部の上の交点上に、ヤクシーの
首が配置されており、一連の蓮華の図像の大きな花のあつかいに一致している。首左右に配置された
蕾は、上部の円周に規定されている。ヤクシーの立つ開いた空間は、中央の円の輻に規定されてい
るかに思える。身体もある程度円弧の規定を受けているように思える。図版18もサンチーの同様の作
例である。ヤクシーの首と身体、上部左右の藩の設定は全く同じである。図版19もサンチーの作例で
ある。この図像は「双象潅水の女神像」と称され、女神は一般にラクシュミー(吉祥天)とされているが、
あらゆる面から見て、極めてヤクシー的な表象である。いずれにせよ、この女神が地母神であることは
多くの文献が示す所であり、ストゥーパ全体の在り方からも疑念の余地がない。





あらゆる生物の母としての大地と生命の泉としての水の調和は双象灌水の女神像
によって意味深く象徴される。この大地母神は史前期に世界各地で崇拝された。
(山本智教「インド史美術大観」本文篇八一頁)

女神の首は、象の鼻が上部に来た為か、一連の規定に正確には合致していない。しかし身体の曲線
的な流れは、基準図形の円弧の規定を受けるかに見える。左右の象の尻の股も張り出した箇所と
鼻の先端を結ぶ線は、五角形の上部二辺に合されているように思える。基準図形の規定が読み取り
づらい作例ではある。しかし重大性は、サンチー第二塔にこの図像が既に存在していることにある。

図版20は、第二塔のこの図像を受け継ぐバールフットの作例であるが、第二塔に比べかなり制度
が高まっている。例の主要交点上に、女神の胸にあてられた右手が正確に位置している。(最重要の
交点を握りしめている。)造形下部の瓶は一連の瓶と同じ規定を受けている。女神が立つ蓮華の花
は、基準図形中央下部の円弧が成す形に同調している。第二塔と同様の、象の背のラインの規定は
より正確となっている。葉や蕾の先端が、正五角形の三箇所の頂点上を指し示している。図版21も
バールフットの同種の作例である。例の主要交点に、やはり女神の合わせた手が位置している。瓶の
規定は図版20と同じである。造形全体がやや対称性を崩していて残念なのだが、女神の合わせられ
た足と、女神が座す蓮華の中心部上の逆三角の先端は、基準図形中心線上の各交点に、一致す
るように目論まれていた事は疑い得ない。女神の座す蓮華の下部の曲線も、基準図形中央の円と
の同調を意図しているであろう。





■表象の配遁が意味するもの

ここまで検証してきた図像の根源的な母体として、ストゥーバの人々が「花のかたち」の図形を理解
していたという確実な事実の線上で、さらに彼らの認識と次世代の展開を具体的に捉え得る重大
な資料として、特に「双象灌水の女神」の図像が重視されなくてはならない。これまでの図像に現わ
れた、配置の一貫性において次の仮定が導かれるだろう。基準図形において、(A群・瓶、ヤクシャ、
宝座)これらが規定されているのは、主に基準図形の最下部の交差領域であり、(B群・蓮華、聖
樹、女神)これらが規定されているのは、上部の交差領域である。このグループ対応から、聖なる存
在とそれを支える存在という、認識上の規定が推察される。B群が対応する基準図形の位置は、基
準図形の本質を担う主要領域であり、A群が対応するのは周縁領域である。これから、B群が基準
図形自体に連続する、主体的表象として扱われているとの認識が導かれる。蓮華と聖樹は大地を潤
す水を司る存在であり、自然崇拝の根源的対象としての、地母神たる女神に集約きれるものであ
る。ここから、基準図形に直結する表象の本質であり、同時に基準図形自体の意義をも担いつつ出
現した存在として、この女神を把握する視座をストゥーパの人々が所持したと、我々は理解するので
ある。また蓮華は、造形上でそれを規定し表象させる、さらに高位の普通的櫛造にも、何故か忽然
と現われる「花」の存在に同値するものたる事で、経験的類推からの象徴的意義を上回り、現実的
な聖性を担い踏まえられたであろう。ここで重要となるのが、はたして彼らがこの基準図形自体を、
花ないしは蓮華と捉えたかどうかであるが、我々の考察はためらうこと無くこれを肯定し、これを事
実として論旨の根底に据えるものである。後世の経典および美術資料の上に一貫する文脈が自ず
とそれを表明していると考えるからである。

さらに、この女神が司る普遍的存在は、「蓮華」であると同時に「蔵/ガルバ」とも把握された事は
疑いないと我々は確信する。我々はこれについても、以後の歴史展開に照らし、自明と捉えはばか
らない。彼らのこの認識の根拠は、あらゆる表象を生み出す母体を、蔵すなわち子宮であると見る
類推だけによるものではない。我々が最初花の形態を見たその図形は、同時に子宮ないしは女性
性器を表象するとも見れるのであり、この現実的な表象においてこそ普遍性を表明し得たのに違い
ない。


■蓮華とガルバ

世界表象の究極の根源を子宮に象徴きせる発想が、大乗仏教の後世の展開たる如来蔵経典や密
教経典の論旨によって、なんら突飛な説ではない事が知れるはずである。だが、このストゥーバで確
立した世界認識が最も親近する経典こそは、前記経典に先行する大乗の主要経典であり、前回我々
が「花のかたち」の多大な関与を指摘した「華厳経」なのである。前回の考察で主軸に取り上げた
「華厳経十地品」と並んで、華厳経典中最古の経典であり、思想史上も重要テキストである「入法
界品」には、我々がここに示したストゥーバにおける「ガルバの理念」の起源とその本質を、この作者
が熟知していた事を明確に示す記述が存在する。

「入法界品」は、善財童子が五十三の聖人を訪ねながら、悟りを得る為の善知識を次々に獲得して
いくという設定の物語である。この五十三の聖人の内に、釈尊の母である摩耶夫人が含まれてい
る。善財童子は八人の夜神と釈尊の乳母と妻をそれぞれ訪ねた後、摩耶夫人を訪ねるのであるが、
そこで摩耶夫人は次のような、我々の考察にとっては驚くべき、自らの本質を告げているのである。

佛子よ、我れ已に菩薩の大願智幻の解脱門を成就せり、是の故に常に諾の菩薩の母と爲
る。佛子よ、我れ此の閣浮提の中の迦毘羅城の淨飯王の家に於て、右脇より悉達太子を
生み、不思議の自在神變を現ぜるが如く、是の如く乃至此の世界海を盡くす所有る一切
の毘慮遮那如来は皆我が身に入りて誕生の自在神變を示現せり。又善男子よ、我れ淨飯
王の宮に於て、菩薩の將に下生せんと欲する時、菩薩の身を見るに、一一の毛孔は皆不
可説不可説の佛刹微塵数の菩薩の受生する莊巌を現じ、彼の諸の光明は皆悉く普く一切
の世界を照し、世界を照し巳りて我が頂、乃至一切諾の毛孔の中に入れり。又彼の光の
中に、普く一切の菩薩の名號と受生、神變と、宮殿、眷屬と、五欲に自ら娯むことを現
じ、又出家して道場に往詣し、等正踏を成じ、師子座に坐し、菩薩圍遶し、諸王供養して、
諸の大衆の爲に正法輪を轉ずるを見、又如來の往昔に菩薩道を修行せし時、諸佛の所の
於て恭敬し供養して菩提心を發し、佛國土を淨め、念々に無量の化身を示現して十方一
切の世界に充遍し、乃至最後に涅槃に入るを見、是の如き事を皆見ざることなし。又善
男子よ、彼の妙光の我が身に入る時、我が身の形量は本を踰えずと雖も、然も、其の實
は巳に諸の世間に超ゆ、所以は何ん、我が身は爾の時に量は虚空に同じくして、悉く能
く十方の菩薩のする莊嚴せる諸の宮殿を受容するが故なり。爾の時に菩薩は兜率天より將
に神を降さんとする時、十佛刹微座敷の諸の菩薩有り、皆菩薩と願を同じくし、善根を
同じくし、莊殿を同じくし、解脱を同じくし、智慧を同じくし、諸地、諸力、法身、色
身、乃至普賢の神通の行願も悉く皆同等なり。是の如きの菩薩は前後に圍遶せり。又八
萬の諸の龍王等有り、一切の世主は其の宮殿に乗じて倶に來りて供養す。菩薩は爾の時
に神通力を以て諸の菩薩と興に、普く一切の兜率天宮に現ず。この宮中に悉く十方一
切の世界の閻浮提の内の受生の影像を現じ、方便して無量の衆生を教化し、諸の菩薩を
して諸の懈怠を離れ、執著する所無からしむ。又神力を以て大光明を放ち、普く世間を
照らして諸の黒闇を破り、諸の苦惱を減し、諸の衆生をして皆宿世の所有る業行を識り
て、永く悪道を出でしむ。又一切の衆生を救護せんが爲に、普く其の前に現じて諸のを神
變を作し、是の如き等の諸の奇特の事を現じ、眷屬と倶に來りて我が身に入れり。彼の
諾の菩薩は、我が腹中に於て遊行自在なり、或は三千大千世界を以て一歩と爲し、或は
不可説不可説の佛刹微塵數の世界を以て一歩と爲し、又念々の中に十方の不可説不可
説の一切の世界の諸の如来の所の菩薩の衆會、及び四天王天、三十三天、乃至色界の諸
梵天王は菩薩の*虚胎の神變を見て、恭敬し供養して正法を聽受せんと欲して、皆我が身
に入れり。我が腹中にも悉く能く是の如きの衆會を受容すと雖も、而も身は廣大ならず
亦迫窄せず、其の諸の菩薩は各自ら衆會の道場に處して、清淨に嚴飾せるを見る。善男
子よ、此の四天以下の閻浮提の中の菩薩の受生に我れ其の母と爲るが如く、三千大千世
界の百億の四天下の閻浮提の中にの悉く亦是の如し、然も我が此の身は、本來無二にし
て、一處に住するにあらず、多處に住するにあらず。何を以ての故に、菩薩の大願智幻
にて荘嚴せる解脱門を修するを以ての故なり。善男子よ、今の世尊に我れ其の母と爲る
が如く、往昔の所有る無量の諸佛にも悉く亦是の如く其の母と爲れり。善男子よ、我昔
曾て蓮華池神と作り、時に菩薩あり、蓮華蔵に於て忽然として化生し、我れ即ち捧持し
瞻侍して養育せるに、一切の世間は皆共に我を號して菩薩の母と爲せり。……………善
男子よ、過去現在の十方世界の無量の諸佛は將に成佛せんとする時、皆齎中に於て大光
明を放ち、來りて我が身及び我が所住の宮殿屋宅を照し、彼の最後生に我れ悉く母と鴬
れり。(「国訳一切経」八十華厳入法界品第三十九の十七)

内部に多数の菩薩や天衆を受容しながら、拡張も裂壊もしない身体、虚空に等しい身体。一所に存在
するでもなく、多所に存在するでもない身体。空的観念に基づく摩耶夫人のこの途方もない抽象性
こそ、ストゥーバを経て、当時すでに安定した世界認識として確立していたであろう、「ガルバの理念」
からの思念的展開に起因するという考えに、我々はもはや疑念を持ち得ない。あらゆる仏陀なるもの
が、その出現に際して経由するとされる摩耶夫人の腹中(六十華厳では、明確に胎内となっている)
こそは、幾何学の普遍性の把握を背後に担い、あらゆる表象の母体と見られた、あの「蔵/ガルバ」
から思念されたものであろう。ここで示される仏陀出世の唯一のプロセスこそは、ストゥーパで
形成された「ガルバの理念」から進展し、ついに「成仏の理念」として転換を成したものだと我々は
理解するのである。この発想の正当性を裏付ける記述こそ、引用後半の下線で指示した二つの言葉
である。ここで摩耶夫人は、自らがかつて「蓮華地神」であったことを、まるで転生の事実かのよう
に述べているが、これは「華厳経」における「仏陀出世の理論」の源流を表明する、並行するもう
一方の文脈において意図的に記述されたものに違いない。しかも、「蓮華蔵」という語が摩耶夫人
の「腹中/子宮」に明確に対応させられてもいるのである。


■「入法界品」の文脈

本来「入法界品」全体の構成において、八人の夜神から始まる文脈の展開が、ある特別な意図を含
んでいる事を指摘し、先の引用箇所が示すところの、華厳が規定する摩耶夫人の存在の相の特種性
を明らかにしたのは、津田真一先生である。

要するに彼女は個別的存在者のレヴェルを超越してある存在そのもの、世界質料(prakrti)
としての〈女性単数のdharma〉たる仏母般若波羅蜜に他ならないのである。
(「反密教学」釈尊の宗教と華厳一○四頁)

最初の夜神から摩耶夫人まで、諸仏出世の本質を担い展開する一連の箇所の文脈は、乳母、妻、母
と、釈迦への近親度を深めながら、やがて歴史的な釈迦の成仏の在り方に連続する。この展開の一貫
性は、「諸仏出生の普遍的プロセス」の形式化を確立するという、並行する今一つの文脈として成きれ
ているとも解釈できるだろう。我々はこれまでの考察の総合的判断から、「入法界品」のこうした論旨が、
一方で「ガルバの理念」の意義を知り尽くし、その解釈学的進展たる華厳の「成仏の理念」の歴史性を
も把握していた人物によって、巧妙に意図されたものと推察するのである。八人の夜神と釈迦の女性の
親近者への訪問の箇所は、それまで続いた文脈を変更したかにさえ思える。しかも、摩耶夫人を辞した
後、弥勒菩薩までの展開は夜神から摩耶夫人までの膨大な量に比べあまりに過少である。文脈はここ
から直ぐにも、弥勒の箇所へ展開したかったとすら思える。すなわち、自らの思想の出自である「ガルバ
の理念」の本質にも拘泥することなく、さらに独自の世界認識へと理念の転換を図る、華厳の本質を告
げるその箇所へ向けて(22)。

ところで、この女性のグループに対し、津田真一先生は後期密教にて展開する構造化された般若
母達の存在に着目されておられるが、我々はこの重大な指摘と、我々のここまでの考察とを照し合
わせた時点で、今日一般に考えられている仏教タントリズムの歴史サイクルを、より長期に変更しな
くては成らなくなるのではとの予感を得た(23)。津田先生の指摘とは別に我々は、この八人の夜神こ
そが、バールフットの遺構および「マハーヴァースツ」「ラリタヴィスタラ」に現われる、構造配置された
女神達と対応する旨の発想を所持していたのである。一連の考察を経た現在、これらが同じ奔流に
おいての展開であると捉える視座がにわかに浮上したのである(24)。


■仏陀生誕と蓮華の女神の本質

普遍の世界の本質と衆生が生きる表象世界を連続させ、しかも、あらゆる表象の根源として機能す
る「蔵/ガルバ」を司り、同時にそれ自体でもあるこの女神の場所が、衆生世界の汚れから出発し、
ついにそれを浄化し尽くした人間たる(世界が本来待つ普遍の相に、現実的な表象の在り方を一致
させ得た人間たる)釈迦仏陀が、ついに到達した悟りの場に匹敵するという解釈が生まれたとして、
そこに僅かの不自然もない。既に我々は、大乗の「成仏の理念」と、ストゥーバの「ガルバの理念」
との結接点の存在は明白と見る。

図版21に見るように、仏陀像が出現する以前に、この女神の表象に関わって、既に蓮華の座を用
いた三尊形式の観念が、確立していた事の重大性を顧みるべきである。「双象潅水の女神」の図像
は、バールフット以降、紀元前一世紀世紀中期の建立ときれるサンチー第一塔のトーラナに、さらに
受け継がれている。この遺品に関して一般に主張されている認識は、ここまでの我々の検証を併置
した上で、その極めて重大な本質を顕わにするのである。





門柱と横梁の間に生じる方形区画には、「二象灌水の蓮華上の女性」「菩提樹」「法輪」「ス
トゥーパ」の四つの図像が現われている。フーシェは、これらをそれぞれ釈尊の誕生・成道・
初転法輪・涅槃という四つの偉大な奇蹟(四大事)を表わしていると解した。「二象灌水の
蓮華上の女性」はガシャ・ラクシュミーの図像であることが指摘されているが、この図像が
仏誕をも意味した可能性はやはり否定できない。成立の古い『涅槃経』には、一般信者に
対して仏陀の四大聖地の巡礼や四大奇蹟の追念の重要性が説かれており、誕生・成道・
初転法輪・浬薬の四つが一組になっているからである。
(宮治昭「インド美術史」四六頁)

この引用に対して、我々が改めて述べなくてはならない事は何もない。本考察が最後に提示する解析
図版の若干の説明が必要なだけである。

図版22は、上記引用が指示する図像である。図版に明らかなように、第一塔の造形は第二塔および
バールフットに比べて、飛踊的に造形処理が高度化している。もはや技術水準においては、初期
マトゥラーの造形が示す内容に匹敵していると言えるだろう。しかも成立年代において、もはや初期
マトゥラー仏の出現に直結する地点に位置するのだ。

この図像は、方形区画内に造形されている為、メダリオン解折のように外周円という基準図形設定
の基盤が存在しない。その為、基準図形の構造と図版上での配置に関わる恣意的要因の極力の
排除という、我々の一貫する手法において多少の難がある。しかし、区画上下二辺に基準図形の
外周円を接しさせるという選択において、最も正当な配置は成されていると考える。

(一九九六年四月)



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