花のかたち(2)

仏塔と胎蔵

八木橋司 1995年

<Part1>



太陽が昇れば、大地を覆う重い迷妄としてのマーヤーは消える。しかし、それは依然として存在し
続ける。釈尊が誕生したとき、摩耶夫人は死んだ。しかし、彼女は仏母・〈無明と明の両極構造〉
なる〈女性単数のdharma〉として存在論的根拠として永遠に存在し続けている。
(津田真一「反密教学」釈尊の宗教と華厳103頁)

1仏陀とストゥーパ

■ストゥーパ造形における仏陀の不在

紀元直後ガンダーラやマトゥラーにおいて、仏像が造られる以前の仏教美術は、サンチーやバールフ
ット等の遺跡に残されたような、ストゥーパ崇拝に関わる造形において展開した。これらストゥーバ
を取り巻く、トーラナ(門)や欄楯(玉垣)に施されるレリーフには、非常に特殊な表現が確認される。
そこにはジャータカ、すなわち釈尊の前世話や仏陀を崇拝する人々の姿や行為が刻まれてある
にもかかわらず、本来仏陀の姿が刻まれてしかるべき箇所には、菩提樹、ストゥーパ、法輪等の象
徴物が刻まれ、人間としての仏陀の姿は一切表象される事はなかったのである。今日的な視点は、
ここに仏陀という存在の視覚表現への畏怖を読み取るのである。

本来の釈迦の思想は、世界事象の本質が非実体的である事を、合理的に提示する論旨から始まる
ものであり、外的に展開する物質的事象こそは、まず第一に解体の対象となる。さらに仏陀自身の
身体はおろか、その認識主体さえも例外とはされていないのである
(1)。こうした観点を正確に把握
していた者からすれば、仏陀の姿の思念的実体化にあたる、その彫像を具現させる事は、明らかに
釈迦の思想に離反した行為とされたであろう。(この観点とは、現実的には当時の部派教団を意味
する。) それにもかかわらず、創造表現の道へと歩み出した推進者達が選択した対処として、仏陀の
姿をその象徴物に置き換えるという、迂回表現が導入されたとする説明が成立する。しかし、この考
えそのものは妥当かもしれないが、事態の表層に対応しているに過ぎない事をも、同時に認識しなく
てはならないであろう。まず仏陀不在を洞察の主軸とする視座自体が、既に仏陀の像の存在を知り、
それを中心化した体系を自明とする文化背景において、成立するものに過ぎない事を意識しなくては
ならない。既に、ストゥーパにおける現世的な人間の活性化そのものである創作活動自体が、釈尊
の思想の本質からは断絶した選択であったいう認識を、先駆けて根底にすえるべきであり、真に
重要なのは、それを先導したものの本質は何かという問いなのである。

我々はむしろ、こうしたストゥーバの人々の選択によって発動した事態が、釈尊の思想の連続性
から逸脱しながら、なおもその解釈学的対応において、今一つの仏教思想たらんとする潮流の分岐点
であったと捉える
(2)。この時点で既に彼らの営みは、必然的な不整合を内包した体系として出発
し、彼らを駆り立ててやまない創造活動を通しての人間活性化への内なる衝動は、この不均衡な運
動体において組織化ざれ噴出したのだと我々は解釈するのである。こうした発想は、大乗仏教の起源
にストゥーパの信仰組織を想定する平川彰先生の説と、根底において矛盾しないであろう。

仏陀の葬儀の場合にも、クシナガラのマッラー人は、舞踊、音楽、花、香などで、仏陀の
遺骸を尊び、敬い、崇め、供養してから火葬にしたという。(中略)これらのものは、現世
肯定的なものであり、現世からの脱出をねがう部派の出家仏教の思想とは矛盾する。
(平川彰「インド仏敦史」上巻347頁)

我々は、仏陀なるものへの解釈とストゥーパ崇拝元来の在り方の双方に対応した、ストゥーバの人々
の思考の軌跡を、うかがい知る事が可能なぎりぎりの遺品資料が、今日なお存在していると認識す
る。我々はこうした資料への合理的な検証から、ストゥーバ造形における仏陀不在表現の意義を問
い直す、新たな視座の可能性が存在するとも考える。その検証の展開は、仏教とストゥーパ崇拝とい
う本来異質な理念の、結合の意義の本質を浮かび上がらせ、初期マトゥラーに拠点を置くと我々が
推定する、造仏の起源との連続を明示するだろう。


■釈尊の思想とストゥーパ崇拝

仏教関係の書籍にだけ接していると、いつしかストゥーバヘの信仰形態が、本来的に仏教独自の形
式であるかの錯覚に陥ってしまいがちなのだが、いくつかの重要なストゥーバに関しての書籍を読む
時、そのような認識が不可能であることは容易に解る。より視野を広くとった次の報告などは、大変
重大な示唆を与えるものである。この報告は、ストゥーパ崇拝の形式が、より広大な歴史の源流から
継続したものである事を、我々に予感させるであろう。

チャイトャ(あるいはストゥーバ)とリンガは、このように、その象徴的意味は全く対立
しているのであるが、両者の形は類似している。仏教徒が祠堂のチャイトヤを崇拝し
た同じ場所で、それに対抗して、ヒンズー教徒が、チャイトャが占めたのと同じ位置を
占めるリンガを崇拝する、という事実は、この二つのシンボルが互いに似た形態を有す
るということのほか、両者が崇拝の中心的対象であるという点から、その象徴意味のい
ちじるしい相違にもかかわらず、共通の何ものかを示していることを教えてくれる。
(立川武蔵「インド・ネパール聖なるものへの旅」 20頁)

釈尊は入滅する直前に、その葬儀の一切は在家者に託し、出家者がこれに関わる事を戒め、「法と
自らをよりどころとし灯明とし、他のものによるな」と教えたのであった。釈尊の思想は入滅にあた
っても厳しく貫かれ、その遺骨を奉ったのは釈尊ゆかりの八部族であった事を経典は伝えている
(3)
この伝承に対応して、明らかな事態が確認できるはずである。これら個々の部族が、釈尊入滅後直
ちにストゥーパを建造し奉ったとするなら、彼らに共通してストゥーパ崇拝の伝統が、その時既に浸透
していたことが、事実とされなくてはならないであろう。仏陀の遺骨を手に入れる為に、あわや戦闘
にまで及ぼうとしたこれら部族のいきさつは、彼らが釈尊の思想の本質から本来無縁であった事を
如実に示している。むしろ対立的立場にあったこれらの部族が、釈尊入滅という事態に関わってだ
け、全く新たな葬礼形式を共同して企画したとは考え難いし、高度に形式的なストゥーパの信仰形
態が、短期的に形成されたものであるはずもない。ストゥーパの儀礼形式は釈尊入滅に関わりなく、
既に彼ら自身が一方で民俗的伝承として、共通に所持したものだと考える方がより自然な解釈であ
る。釈尊の偉大さを崇拝する行為とストゥーバ信仰の形式は、ここで結果的に結び付いたであろう
が、彼らを駆り立てた情熱の本質は、彼らが元来所持していた、純然たるストゥーパの理念にこそ帰
結するものだったのではないだろうか。そしてその本質は、釈尊の説いた思想とはむしろ相入れない
性格のものなのであって、おそらくは、釈尊の思想の出現を遥かにさかのぼって、この地域に継続し
て来た頑強な宗教儀礼の体系に属すものと考える事が妥当に思えるのである。

こうした発想は、ストゥーパ研究の重要な論書である杉本卓洲著「インド仏塔の研究」の「チャイティャ
としての仏塔は、多様なる冗術的、宗教的様態を包含し、インド常民もしくは諸部族の自然にして素朴
な、組織以前の諸信仰を母体として、発生し展開を見たもの」とする、一方の結語において矛盾しない
であろう
(4)。杉本先生は、特にナーガという部族を、ストゥーバ信仰の重要な担い手として取り上げて
いるが、それに関わる次の箇所は、ストゥーバ崇拝の探求において極めて重要な指摘である。

ナーガと呼ばれた民族も、恐らくは厚葬思想を有し、死者や遺骨に対応する崇敬を、墓
の建設とその祭祀という形で表現したと考えられる。(中略)ナーガと呼ばれた民族は、
仏陀の遺訓とされる「自己を洲(灯明)とし自己を依り処とし、他人を依り処とせず、法を
洲(灯明)とし、法を依り処とし、他を依り処とせずして住せよ。」という勧告に関わる事
なく、仏陀その人、及びその遺骨を洲(灯明)とし、依り処とした最初の人々、あるいは
その代表者であったのではあるまいか。すでに仏陀の生存中に、彼らは仏陀に対して
人間以上のものを感じ取り、仏陀の死後においても、逸早く仏陀の遺骨を崇拝の対象
と化した先駆的な存在であり、その墓であるストゥーパ・仏塔をはぐくみ育てた当事者で
あったのではないかと想定されるのである。
(インド仏塔の研究」400頁)


■女神蓮とストゥーパ

仏陀を奉ったとするサンチーやバールフットの遺跡を見て、最初に不可解に感じるものはヤクシー
の存在である。これらの遺跡のトーラナや欄楯の造形を見れば、ストゥーバにおいて、ヤクシャとヤ
クシーが、なんらかの特別な意義を担っている事は明らかに思える。ヤクシャ、ヤクシーは漢訳に
よって夜叉、夜叉女と訳され我国でもなじみ深い。この邪神とされる精霊逹は、守護神として仏教
に帰依したと大乗仏教は設定するが、この解釈によるかぎり、ストゥーバのいたる所に存在する彼
らは、ストゥーパ本体を守護する役割として造形された事になるだろう。しかし、彼らは元来インド土
着の樹木の精霊であり、地神的性格の存在であった
(5)。彼らへの民間の信仰が、仏教の出現よ
り遇かに先行したものである事は、軽視できない事実なのである。

例えば、サンチーのトーラナに取り付けられたヤクシーの造形が、全体の構造の内で際立った重
要度を示している事は、誰の目にも明らかである。またサンチー、バールフット、ブッダガヤの浮き
彫りの内に登場するヤクシャ、ヤクシーの頻度は、これ以外のテーマに比べても特筆されるべき
ものがある。こうした事例の内で、特に留意しなくてはならないものは、バールフットのストゥーパに
おけるヤクシャ、ヤクシー像の組織的な配置である。バールフットの遺跡は崩壊した状態で発見さ
れ、外周を飾ったトーラナと欄楯の一部だけが、カルカッタの博物館内に再建されている。欄楯を支
える柱の内、入り口左右の柱及び四維に設置された柱には、等身大ほどの神像が彫刻されている
が、この内の多くは、ヤクシャ、ヤクシーである
(6)。ストゥーパの欄楯には東西南北に入口がある
が、これらが同じ作りであった事は疑いない。この配置は、ストゥーパ全体の構造において意図さ
れたものとしか考えられない。これに関して杉本先生の前掲書は他の箇所にて、「マハーヴァスツ」
「ラリタヴィスタラ」の叙述にある、各方位を守護する守護神とその従者の各八名の女神の構造的
な配置との対応の可能性を提示する
(7)。四方守護神の発想は、叙事詩「マハーバーラダ」にも
記述されるという。これにおける守護神の内、クペーラを除く全てがヴェーダ以来のバラモン教の神
であり、この思想の源流が、仏教以前のアーリア思想の原点までさかのぼる、太古のものである事
を示唆している。そのクペーラは、ヤクシャを率いる大将とされる。四方守護神の概念は、大乗仏教
においても独自の展開を経た結果、今日よく知られる四天王として確立したが、そこに引き継がれ
ている守護神が、クベーラだけである事も極めて重大な事実としてあわせて述べておかねばなら
ない
(8)

こうしたアーリア思想の原初の概念に大きく関連している、「マハーヴァスツ」「ラリタヴィスタラ」の
女神達と、ストゥーパに介在するヤクシー逹の間に、強い連続性がもし認められるのであれば、
ヤクシーが歴史的に先行する非アーリアの地母神的性格を伝承している事実を考慮に加えて、実
は彼女逹の存在こそがストゥーバ崇拝には欠く事のできない主因なのであって、その起源はインド
ないしは、それを歴史と地域において上回るかもしれない、より広大な源流に求めなくてはならない
事態が、可能性として浮上するのである。バールフットのストゥーバに見るヤクシー達の組織的な
配置は、こうした古来からの伝承の上に存在した、何らかの理念に基盤をおく事がにわかに予想
されるのである
(9)

杉本先生が、ナーガに加えて重要なストゥーパ崇拝の担い手としてあげる、組織化された女性集団
の存在は、こうした文脈に沿って重大な意味を示すものである。前掲書は、仏教教団たる比丘集団
(出家者集団)とは、異質の理念から組織されるとしか考えられない、ある女性集団に関する、律蔵
からの重大なエピソードを提示している。ここでは、彼女らは比丘尼(女性出家者)と記述されている。

舎衛城に一人の多知識の比丘尼が居ったが、死亡した。そこで比丘尼たちが、比丘
の住んでいる寺の中に「塔」を起てようとして、寺に来て話をしたり、戯笑したり、唄った
り、悲コクしたり、身を飾ったりして、座禅中の比丘を乱した。中に迦比羅と名づく長老が
居って、比丘尼たちが立ち去った後、その塔を壊して、取り除いて伽藍の外に捨てた。
比丘尼たちは、これを知って、刀や杖や瓦石を持って迦比羅を打とうとやって来る。
しかし、彼は神足をもって空中に逃れた。この話を聞き知った仏は、比丘尼たちを呵責
して、若し、比丘尼、有比丘の僧伽藍の中に入らぱ波逸提なり、との結戒をなした。
(「インド仏塔の研究」415頁)

同様のエピソードが数種あげられているが、それらに共通した要点は次の三点である。

@ この比丘尼の集団が、塔による葬礼を重視した事。
A この比丘尼逹の行動は、仏教の規範と無縁で、復讐として殺人さえ厭わない事。
B 比丘が比丘尼と塔に対して否定的認識を持ち、それが極めて過激である事。

@のような比丘尼の葬礼は、釈尊本来の思想から導かれる事は有り得ない理念である。彼女達がこう
した信仰形態を伝承していたとすれば、この起源は非仏教的な源流にあり、むしろこの集団の本質を、
こちらに求める方が妥当ではないのだろうか。Aに見るごとく、ここで比丘尼と呼ばれる集団の性格は、
時に邪神と称されるヤクシーのそれを彷彿させるものがあり、この集団が、非仏教的な土着の理念を
踏襲している観を拭えない。加えてBにおいて、この場合比丘尼と呼ばれる集団が、仏教教団たる
比丘集団と対等の女性教団を意味しているとはとれず、二つの組織は理念上対立的である事が示さ
れている事も、こうした発想を支持するであろう。

こうした比丘と比丘尼との対立的な関係において、最も注目しなくてはならない点は、このような関係
においても、この異質の組織は、より大きな基盤の内で何故か親近している事である。最終的に、仏が
比丘尼集団を戒めるかたちで、二つの理念の調停が成立する訳だが、この設定は今ひとつの事実を
暗示しているだろう。すなわちここでは、本来仏教教団の理念と対立的な比丘尼集団の理念自体は、
特にその非合法な本質を問われる事もないまま、事態の表層に対処した新たな規範が示されたにすぎ
ないのである。だとすれば、ここでの比丘尼集団の理念は、仏のより高次の声のもとに、比丘側の理念
にそのまま包括されたとしなくてはならないのである。これは一見、事態としては不可解なのだが、興味
深いのは、こうした在り方こそが、先に概略を述べた仏教とストゥーバの結び付き方に、実によく合致し
ている事なのである。

仏教とストゥーバ信仰の、原初での複雑な結び付きの様相を垣間見てきた。その本質はなんら変わる
事なく、大乗仏教の高度な展開をもって、確固たる体系として引き継がれた事は言を待たない。その
原点への考察の明確な方針は、以上の我々の言及などを待つまでもなく、以下に引用する各指摘に
おいて既に強く打ち出されているのである。

釈尊が菩提道場として菩提樹下を選んだのは仏教以前からの民間信仰の伝承につな
がるとみたのは、ベックおよびオルデンペルグであった。著者は、これら樹木信仰の起源
としてモヘンジョ・ダロ発掘の滑石製の印章に注目したいのである。これについて、クマラ
スワーミはビッパラ樹の神(夜叉か)の祭儀を現したものだとする。またマッケイはピッバ
ラ樹の人物を女神とし、下方の七人も女神と等しい頭飾りをつけているから、神とみなされ
るべきだとしている。もし、ピッバラ樹下の神が女神だとすれば、樹神信仰が本来、生産
力を象徴するものとして直接生産に関係があるという一般的な母神の信仰形態を伝える
ものだといわなければならない。そうすれば、その下方に見出される七人の神はヴェーダ
文献の七賢または七聖仙と無関係であるばかりでなく、聖樹信仰と結びついた過去七仏
が果たしてアリアン民族に固有な信仰であったかどうか、という重要な問題も提起される
わけである。 (宮坂宥勝「仏教の起源」 328頁)

だがそうだろうか。仏像をつくることがタブーだったのだろうか。私はここには、もっと素朴
な理由があったのではないかと思えてならない。つまり、その地の人々にとって、もっとも
大切なもの、生きていく上に重要な存在、それは、その地に古くからあった在来の祈りの
対象によって表現ざれたのではなかったか、ということである。だから、その地に聖樹とし
てピッパラ樹(菩提樹)が崇拝されていれば、その聖樹をもって仏陀釈尊が指示され、偉大
なるものの足跡が礼拝の対象になっていれば、それがそのまま仏足跡として釈尊が暗示
きれたのではなかっただろうか。ここには、自然のなかに祈りの対象を見出だし、それで
なんの不都合もないという人々の素直な造形上の表現意識があったのではない
だろうか。 (久保田展弘「インド聖地巡礼」 121頁)



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