美術学校+美術予備校

人の批判ばかりやっておったら自分に関係あるツッコミが揚がっておるで御座った。ゲイジュツに関わる身はそれなりにヤバイので御座いある。

平成17年 東京大学大学院 総合文化研究科 地域文化研究専攻 修士学位論文
つくられる個性:東京芸術大学と受験産業の美術教育 荒木 慎也
http://zeroken.org/thesis/index.html

まぁ、週刊誌取材レベルでの元ネタは結構当たっているところ在りなので御座るが、決定的にズレていることを書いておくとで御座るな。

この論考、芸大というローカルな世界中心のアカデミーな着眼(ま、日本美術界にアカデミズムなどもともと無いので御座るが)から離れられないので、芸大VS予備校どっちが悪いかの問題に終始するハメに成っているので御座る。というか、この着想だとこういうむなしいポチっとしたテーマにしか成りようがないので御座る。事の本質は、大学にしろ予備校にしろ、芸術云々以前に資本主義競争の中での効率化と結果主義を要求されるということであり、それから離脱した学習や表現の現場を打ち出すことがなかなか全日本的に難しくなっているということなので御座る。これは今後はますます政府の方針なので御座い在る。

まともな着眼でいけば話の動かしどころはより外枠への拡大なので御座るぜ。日本美術と称されている領域全体が、実は明治以後ユニークに資本側の要求通りに構造化された歴史で御座るゾなどとまこと壮大なフカシ話も可能だったので御座る。より現実的なキュレーターや画商諸氏はいろいろかぎ分けて論法出してきてるで御座るね。スーパーフラットとかいろいろ流派が直ぐ出来るので御座る。学校への入り方も全体構造の一環ということは言えるで御座ろうけどなぁ。それにしても、東大というところはこんなショボイ研究に国費を払ってるので御座るか? それぐらいなら拙者どもの仏像研究→http://jam.velvet.jp/mathura-buddha.htmlにちょっとぐらい予算くれてもよさそうなもので御座る。

美術学校のローカルな話では御座るが、確かに現場に関わる者が日夜打開方法を模索して行かなければならない問題は多々在るのは確かで御座る。しかし昨今は何が何でも芸大にという風潮も徐々に薄れて来てるのはいい傾向で御座る。芸大でなければそれほど極端には上手くない個性的な作品でも合格できるので御座る。もちろん、この場合の上手くないとはけなしてるわけでは御座らんからね(参考例→http://jam.velvet.jp/auto-live-16.html)。カッターナイフで鉛筆を削る方法とか、絵の具を平らに塗る方法とか、床にゴミを捨てないようにする、などを教えるのもゲイジュツの基礎指導に関わる者にとって重要な事と心する所存で御座い在る。出来ることなら、こんなこと教えたら入学試験に対応できなくなる傾向の授業など適度にやるぐらいのノリで良いとも思うが、なかなか理想通りには世の中行かないもので御座い在る。


PS-1 自分らの研究の宣伝(w

なぜ日本美術にアカデミズムが無いかと言うと岡倉天心の水準を100年たっても超えられないのに、越えたつもりで漫然とやってるからで御座る。そういう立地点にすら到達できず予備校のチラシ集めの研究に国費が費やされているというのも厳しいものが御座る。西洋のようにアカデミズム云々でVSやるような基盤などいつまでたっても出来ていないのも道理の日本で御座ろう。まぁ、そんなものは無くて十分良いので御座るが、在るかのごとくのへんな論考読んでしまうと人間ひとこと言いたくなるもので御座い在る(爆

ちなみに、岡倉の日本美術史は我国の仏教遺品の具体構造が一世紀のインドの仏像設計原理を正確に受け継いだ内容であることを夢にも知らなかった為に、より徹底した詰めを成すまでに行かなかったという事情があるので御座る。また、堅物の岡倉としては北斎のノリがほとんど理解できておらず、一本太い線を落としてしまってるで御座るが、北斎はさすがにぶっ飛びすぎて御座るから当時としては致し方無しで御座るかなぁ。しかし、その後100年から時間を与えられておるのにまともな切り口も出せぬ状況というのはこれは辛い限りで御座る。いいとこ根こそぎ西洋諸国に持ってかれてるわけでござるが、そこにツッコみ入れるノリもないのではなぁ、と。まぁ拙者今年は北斎もやるかと思っているで御座る。とりあえず仏像研究の線に関しては現在拙者どもにより完全証明済みであるところの材料をもってすれば(参照↓)、岡倉の視点を経て(脱してと言いたいところでは御座るが)より合理的かつイケイケなパラダイムへと突っ切れるのは火を見るより明らかなので御座い在る。もちろん、それは岡倉が本来意図しなかったはずの「アジアの中心としての日本」などは出てこない「世界交通の中の日本」という話で御座る。まぁこのあたり別に美大受験生には全く有用では御座らんのだが拙者のフカシの才能も加味されウケをとれるネタなので御座い在る(爆

Jabrec-Art-Music 仏像研究 「花のかたち」
http://jam.velvet.jp/mathura-buddha.html
http://www7.ocn.ne.jp/~jabrec/buddhism.html

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PS-2 総合フィールドというもの

この論考全くおかしいのは、他美術大学が積極的に行っている個別の社会対応、ファインアートとデザインの特性による状況の違いなど、フィールド全体の詳細検証が一行も無いので御座るな。今時、東京美術学校の話などする必要があるアーチストやデザイナーなどおるわけ無いズラ。まぁぶっちゃけた話、学校制度があるので美術大学が大学になってるだけで、やってる内容は本質は専門学校と区別在るものでは御座らぬ(芸大なんてそれ以上に先生来ないでしょw)。もし国の方針が変わってそういう枠組みになっても別に問題は生じないに違い御座らぬ。なにせアカデミックな成果の蓄積というモノが無いんだからそれほどアカデミー色はいらないので御座る。それは日本らしくてOKな訳で御座る(爆

総合領域の実態に眼を向ければこの論考と全然違う展望が在るわけで御座る。例えば、私立美大のデザイン系メディア系の学科などは、実に細かくニーズにあったコース設定が形成されており、全体で合理的な体系を築いて御座る。入試で要求される実技内容もそれぞれに見合って明確で御座る。それほど意味無く訳の分らないことはやらなくても良いと言うことで御座る。古いと言えば古い観もありで御座るが、まぁバウハウス以来の伝統を踏まえキッチリやるわけで御座る。またこの領域は産業側との結線までかなり綿密に形成されており、人材を導く体制も相当重視して御座る。拙者の知る限りでは美大生になってもそれほど道理が通らぬことをグチグチ言ってるヤツもおらんよ(爆

一方、絵画や彫刻などいわゆるファインアート(何がファインなんスカ?)の領域は、こうはパキっと行かないのはゲイジュツだからしょうがないで御座る。これは全世界的な条件とまずは開き直りから入るしかないで御座る。表現の場所をどう確保するかの第一歩がその人の選択としては入試だと言うだけのことで御座る。受験生と言っても一応そういう覚悟でやってる前提で御座ろう。チミらにはこの後たった4年間モラトリアムが準備されているだけで御座るが有効利用で次の脱出線を見い出して頂戴、と、そう言うことで御座る。まずそう思えばいろいろ選択肢は広いことになるので御座る。そういう機転の利く連中の増加によって入試競争の大学間の偏りがある程度分散するという筋書きがあるので御座る。かの論考の線で言えば精神衛生上の自己防衛策ですな(笑 要は健全な精神が保て無くなるほどゲイジュツをやる必要もないと成ればカルト傾向は防げるで御座る。今や情報がボコボコ世界を回ってるし自分も回せるんだから、何処にどう居ても工夫すればいくらでもやりようが出てくるで御座る。まぁこれからはそう言う連中の時代で御座るゼヨ。ミュージシャンなんてのはロック大学とかインプロ大学なんて無いもんでみんなあっけらかんとやっとるで御座る、OK、Luck.


PS-3 芸大アカデミズムの行き先

>これらの事例から、筆者は、東京芸大は模倣訓練の期間を創作活動の期間と切り離し、前者を美術予備校に肩代わりさせ、自らは教育を放棄したかのような立場を取ることで、本来ならば実現不可能である「創造的な教育機関」として自らを抽象化しようとしたのではないか、という仮説を立てた。

http://zeroken.org/thesis/honbun_conclusion.html

結論にあるこの定義は要は拙者が言ってる、日本の美術ってアカデミズムの蓄積なんて無いスヨ(←特に芸大とは言ってないで御座る)、というのと筋は同じで御座ろうか? 本来拙者の言ってる一言で事たれりでは御座んの? 教育を放棄したかのようで実は放棄しておらず、しかもそれは本来は実現不可能なもの、それが芸大で御座るぅ〜!などとは実に疲れる話で御座る。しかもこの定義で行けば、模倣訓練役割分担とされながらも予備校が創造の要である何らかの領域を受験生に伝授するということなのか、或は誰もそれはやらないので学生は自前で何とかするようになのか、そのいずれか両方かで御座るよね。芸大は立場としてはそれを放棄してる訳で御座ろう? 現実は実際ズバリその通りで御座るよね(笑 拙者の場合これを別に否定的に捉えている訳でも御座らん。このパターンこそ日本様式というもので御座ろう。型枠だけは一応設けますんで、ま後はフレキシブルに、で御座る。抽象化というより現実策なので御座る。

>その結果、予備校と東京芸大によって、模倣訓練と創作活動の分業が明確に行われているのみならず、学生が双方の機関で教育を受けることで、かつては東京芸大が抱えていた「アカデミズム」と「ボヘミアニズム」の対立を、学生個々人が受け止めなければならないという事態が発生している、ということが判明した。

あ、そうか、なるほど、この箇所は拙者が上で書いた「学生は自前で何とかするように」にあたるのかもな? ちゃんと書いてあったか、失敬。しかし、これまた拙者のアプローチの方が竹を割ったごとくに分かりいいでは御座らぬか。 そういう学校だからそうなったで全てOKで御座る。だいたい誰もそれなりに何とかするもので御座るよ。何とも成らんからと言って大学が悪いと言うことには普通成らぬので心配御無用で御座る。

フ〜ム、この後に続く最終結論になると最早拙者にはいまいち論旨がよく掴めないで御座る。>我が国における「自律的創造者」の概念は外部から輸入された概念であり・・云々、てのが気になるが、どういうニュアンスでこれ言ってるのか実によく分らんで御座る。明治以後日本には「自立的創造者」などおらないと言う定義なのか? ムリムリ大げさ過ぎで御座るんじゃないの? そもそもこんなジャパンローカルな話を世界のみなさんにどう説明すればいいので御座るよ。確実にアッハ〜ンてなもんで御座る。




PS-4 芸大アカデミズムの行き先 その2

結論の後半をなんとか理解しようと再度がんばったので御座るが、やはり趣旨が掴み切れないで御座る。芸大がそのボヘミアイズム路線に転換するために「教育」の方はもっぱら予備校にパスしたという話のようにしかどうしても読めないので御座るが、それではその時点で元々のアカデミズムの方は何処に行ったで御座るの?ここで言ってる「教育」というのが本来芸大が担っていたはずのアカデミズム全部ってことはないで御座ろう。アカデミズム=模倣訓練というもんじゃない訳で御座るから。万が一そういう話をしてるのなら、芸大というのは合格した者にアカデミック力量取得の認定を行って、あとはこっちでボヘミアンで行きましょう、というだけの「社会制度」の事だと言ってるも同じで御座るがぬぁ。

(↑)どうやら論考の趣旨はそいうことに落ち着く気がして来たで御座るが、これは先にも書いたごとく美術学校全体が形成するフィールドの検証を意図的に排除した偽装レトリックに過ぎないので御座る。拙者の言うようにもともと強靱なアカデミックな蓄積(例えば東大インド哲学みたいな)というものなど無いところにもって、試験内容がどう変わったところで実はたいして本質に変化など起こらないというのが正解でござる。それが証拠に、この論考が途中資料提供してるところの「歴代わき起こる文句の内容」はずーっと同じなので御座る。石膏デッサンが人体デッサンになって今は絵の個性てのになったと、ただそれだけの推移で御座るね。 (http://zeroken.org/thesis/honbun_02.html 4節および7節参照 。)


PS-5 イギリスの教授

つい最近、イギリスの美術大学の教授と話をしたので御座る。もちろん教授はペラペラの通訳同伴(w 教授曰く、既に美術学校の国際ネットワーク化が進行している以上、今後その利点を生かした教育というものが模索されるべきで、そのあたりでこうやって日本にも来てるというので御座る。実際そこは各諸国から学生が来て御座るらしい。ニッポンからも芸大他諸大学の体制では飽きたらぬ連中がけっこう来てるそうで御座るよ。教授としてはイギリスのアカデミーもその世界ネットワーク発展の一翼をになうことに強い意欲を示して御座った。さすがリサーチ完璧で、我がニッポン国の美大キャラも分析済み(爆 が、そこは欧米人アーティストのすばらしいところで何事も前進姿勢で御座るよね。ニッポンから来る学生はスキルは世界一流だとの太鼓判で御座るよ。世界もビックリだと。逆に、アメリカからの学生となるとスキルはめちゃめちゃで来るが主張のエネルギーは強力で御座ると(←要はニッポンの学生はそっちが足らないのではと暗に言ってる訳では御座るね、Wwp)。が、立ちあげるべきテーマはどっちが良いか悪いかというあたりでは御座らんでしょうと。この特性を国際ネットワーク路線で影響し合い相互学習体制で今後いいとこ取りでやれるじゃないかと。ジャパンアート教育の成果を基盤にまだまだクリエィティブ開花教育の展開の筋書き模索OKですね、てな線を考えてるらしいので御座る。おお、確かにそれはナイスなんだがちょっと金がかかりすぎるんじゃないのと内心思った拙者では御座るが、まとりあえず世界はそういう意識だということは一応スッキリな拙者で御座った。教授が言いたいあたりは、アメリカとニッポンの体制にはそれぞれ良いところと問題があるでしょうねと、当方はそこを意識した一歩先進のヴィジョンでやってますよ、とこういうことに成るので御座ろう(笑

しかし、とにかくスキルがバッチリあるというのはかなり強力なんで御座るよ。後はかの論考に象徴されるところの歴代根を張っているゲイジュツ-ルサンチマン路線にくれぐれも吸収されることなく、実存表現路線に一刻も早く踏み込んで行くことで御座ろう。実存表現路線は孤独との戦いでござるが、その分お気楽な世界でも御座る。拙者としてはゲイジュツに陥り過ぎない工夫が我がニッポンでは重要と思う次第で御座る。「人間性が失われるほどゲイジュツやる必要はない(注釈1)」というのが第一条と考える所存で御座る。

しかし、まぁ金があったら海外留学もいいで御座ろうが、別にニッポンにいたら出来ないなんてこたぁないズラ。自宅六畳でCG駆使して怪獣映画つくった人がいるで御座るね。さっきお昼のラジオで京都の伝統工芸の専門学校から中継が御座り、仏師めざす若い人らが総合パワーで一体仏像造ったとかやって御座ったよ。こうした実存表現路線こそ今後益々イケイケのはずで御座るよ。ネガドンはちょっとメカ過ぎるんじゃ?,

(注釈1) ゲイジュツと閉鎖内向自己愛の区別が付かない映画監督がいて大殺戮自分主人公映画(超汗)まで造ってしまうわけだが、世界でもニッポンでもそれはコケタで御座る。最早時代はそこにはないと言うこと。

PS-6 政府体制への提案

ニッポン-アート領域の「今」が直面している的確な現状認識はこのあたりになるべきはずで御座る。

民主化するイノベーション

既存メディア(教育+研究機関も当然圏内)は解体されても再編成すればいいだけのことで御座り、その路線に嫌顔でも動くで御座る(攻撃されるとそれに対応して形状変化を遂げるザラガスというのがいるね、爆)。この流動推移の只中「21世紀実存表現路線」の可能性はガラスの破片のごとく隙間を見つけ、インプロよろしく食い込んで行くので御座る。20世紀には「表現」とは露も意識されなかった諸分野で現在「実存表現路線」がどんどん拡大中で御座る。逆に黙っていてもゲイジュツですんでと真面目に学習を頂戴していても大して浮かばれそうもない感じ濃厚で御座るな。確実にこっちサイドにアバンは充満してるので御座る。


ということで、ニッポン-アート領域のノリをどんどん高めつつ、同時に国民生活全体の文化的利益にこれをシンクロさせる行政戦略として、政府はこうしたらいいんじゃないのと多少思うことありなので御座る。

(そのうち続く)




断片小説JABROID

JABREC-ART-MUSIC 八木橋司(アーチスト/仏教造形研究家)