花のかたち(1)
初期マトゥラー仏の構造と華厳思想
八木橋司 1995年


<Part-3>

7 解析の展開

ここまでの検証に続く、我々の解析の重点は頭光の存在にあった。この仏坐像全体において、唯一具体的な円そのものとして刻まれている頭光が、これまで明らかとなった構造の一貫性のもとに刻まれているであろう事は、もはや当然の内容とすら考えられたのである。その予想通り、我々はそれを明らかにする解析を合理的に導きえた。ところが、この解析の結果、我々の予想の範疇をはるかに越えた、この仏坐像の構造が担うところの、さらに本質的で重大な事実の存在が明確化したのである。この造形者の驚くべき知性と技術は、以下に説明するこの重大な事実において、誰の眼にも明らかな事であろう。

「花のかたち」の連鎖構造
[図版8]は、[図版6]と同じ作図の上に、ある「連鎖縮小の規則」に基づいて、全く同じ図形を重ねて作図した結果である。この連鎖は、「花のかたち」自体の構造に準じて合理的に作図する事が可能である。この作図は、比較的複雑な過程を経て成立するものではあるが、定規とコンパスだけを用いて作図する事が可能な性質のものである。我々はこの作図法を既に解明しており、本来これについての詳細を記する必要があるのだが、それには紙数を用するので、ここでは主な結果だけの提示に止まらざるをえない。これ以後の検証に際して把握しておく必要のある、その要点を述べたい。



図版8

「花のかたち」が内在する正五角形の上部の頂点の位置は、先に述べたように現実化された彫像においては、菩提樹の枝がその位置を強調する「頭光の最頂部」に対応している。連鎖縮小の操作は、互いの図形のこの位置を一致させる事を根本規則として成立している。ここに言うところの図形の連鎖縮小とは、互いの図形のこの位置を合わせ、一方の単位図形を縮小させる操作を意味するのである。

さらに、縮小する比率がどの様に決定されているかが、もう一つの重要な事項である。連鎖縮小の完了した図形の重なりは、無駄のない極めて合理的な位相を示し、既に一体的な図形に変容している事が解る。これは、縮小比が「花のかたち」の構造の内的完結性において設定されている事の現われである。単位図形としての「花のかたち」は、いくつかの円弧がシンメトリーに交差し、それぞれの交差領域をその中央に形成している。これらの円の交点は図形全体の中心線上に縦列している。縮小の操作は、この交点の内の特定の二つの交点の位相に基づいて実行されているのである。縮小の操作とは、縮小すべき図形内の特定の交点と、元の大きさの図形内の位相の異なるもう一つの特定の交点とが、重ね合わさるように作図する事を意味するのである。この交点の関係と、縮小の具体的な作図方法は、詳細な解説を伴って提示されなければ、かえつて混乱を招くので、ここでは以上の簡略な説明に止まる事が妥当と考える。これに関しては、機会を得て改めて提示する事が適当と考える。

これ以後の検証を理解する為に把握しておくべき要点は、(1)連鎖縮小の墓準点が正五角形の上部の頂点である事、(2)縮小比が、「花のかたち」の構造に自足している事、(3)それゆえに、「連鎖縮小の規則」と単位図形の構造とは総体的に自己完結している事、である。


[連鎖構造の本質]
以上説明した操作に基.づいて、縮小した単位図形を重ね合わせた連鎖図形を、前段階の解析とまったく同じ位置で、仏坐像の上に重ねたものが[図版9]である。頭光に対して、かなりの精度を伴って、ひつの円が同調している。この円は、前段階の基準円が縮小したものである。最初の段階が、三尊像全体の構造を規定していたのに対して、第二段階の円の交差領域は、主に仏陀の上半身から頭部の具体的形状に対して、効力を示すものとなっている事が解る。仏陀の身体を横切る円弧やその交点が、現実的な造形の主要な位置、およびその全体的関係の規定に、極めて精巧に対応している事は明らかである。



図版9


二つの単位図形が重複し一体化した事で、飛躍的に複雑になった円の交差の状況を、この像は自らの表出の規定として、余すところなくその姿の内に織り込んでいる。我々はまずこの総体のテンションを、全てに先駆けてしっかりと把握しておく必要がある。連鎖図形自体が一体的な位相に融合している事は、既に示した「連鎖縮小の規則」の性質においても当然であり、何よりもその視覚効果から明白である藺この融合性が、そのまま現実的な造形の上に投射され、現実的な仏陀の成道の光景として結実しているという事態を、正しく受け止めなくてはならないのである。

ここで明らかとなった総体的な構造規定が、発端において漠然とした印象でしかなかった、構造的一貫性の正体だったのである。この段階において、仏坐像の造形者の根本の意図は、明白に我々の前に示されたと言ってよい。重なる困難にもかかわらず、さらにそれを解決してきたこの造形者の努力は、この理念と実践的造形の確立を目指して実行され続けたのである.このような幅の広い造形思想の反映であるこの仏坐像に対して、連鎖図形の個別の段階や要素に、造形上の部分的な状態を対応させるにとどまる即物的な検証は、無益ではないにしろ、二次的な側面しか提示出来ない事をまず知っておかなくてはならない。何にもまして、この造形の総体的構造の堅牢さと、それをもたらしえた、理念および実践の過程に見られる、徹底した合理性に対しての畏怖なくして、この造形の真の意義を理解する事は、到底不可能と知らなくてはならないのである。



図版10


この造形の理念と実践の本質を、より完結に説明する必要上、ここまで連鎖縮小の位相を、あたかも二段階のものの如くに、記述してきたのであるが、実はさらにこの縮小の操作はもう一段階繰り返され、合計三段階の図形が重ね合わされている事は間違いないのである。[図版10]は単位図形の三段階の連鎖の位相であり、[図版11]は、この仏坐像に関する我々の最終的な解析である。この解析に明らかであるが、三段階目は、主に仏陀の顔の形状の規定の為に要請されたものである事が解る。仏陀の顔の細かい規定が、この段階で出現した円弧の位相に精巧に対応している事が、明確に見て取れるであろう。仏陀の顔を横切るそれぞれの円弧は、三次元的な人体彫像の実現の方法である多面構造、面が切り替わるラインに、ことごとく一致している事実に留意する必要がある。単に技術的に見ても、既にこの三段階の作図自体が極めて高度であるのだが、真に驚異的なのは、造形者の作為によって制御を加えていない、完結した幾何学のシステムにすぎない構造に対応させて、このような細やかな顔の表情までも、現実的造形の総体の内に自然に投射させ造形してある事なのである。



図版11


以上が「カトゥラー出土仏坐像」に対する我々の解析の最終的な提示である。この解析において、この仏坐像の造形者が捉えていた理念の本質は明白となったと理解している。この仏坐像の在り方には、幾何学の完結性に対しての高度な理解と、その意義に深く対峙し、当初の造形的探求から、さらに高い造形理念へと昇華させていったこの人物の思考の痕跡がありありと刻み込まれているのである。


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