花のかたち(1)
初期マトゥラー仏の構造と華厳思想
八木橋司 1995年


<Part-4>

8 明確化する仏教史上の問題

「幾何学の完結性(完結した仕組み)」の現われであるこの構造の総体性を、現実的な造形の在り方に余すところなく織り込んでいる、この仏坐像の個別の要素への分断的な理解の困難は先に記述した。しかし、仏教史に関わる以後の検証の方向を明確にする意図から、あえてこの造形の個別の二つの重要な事項を指摘しておく必要が存在するのである。

[初期マトゥラー仏の肉髻の意味]
連鎖図形の構造に関わる最も重要な事実は、正五角形の上部頂点を一致させるといった「連鎖縮小の規則」に起因して、デザイン的に表現された菩提樹の枝の付根が位置する「頭光の最頂部」に「連鎖の特異点」(0地点)が形成された事である。その性質に基づいて、この点を中心に同心円が発生している。この「特異点」に向かい、中心線上で連鎖する交差領域は縮小し、仏陀の肉髻の形状の規定に効力を示しているのである。

だが、この肉髻に関わる言動の提示のされ方が転倒している事に、誰もが直ちに気付くであろう。逆に、肉髻の意味がこの構造の側に求められなくてはならないはずなのである。初期マトゥラー仏の肉髪の特異な意匠は一般に知られるところである。この特異性は、これまで検証してきた仏坐像ならびに、造立の理念を共にする初期マトゥラー仏にのみ特有の構造から導かれた意匠であり、構造の側が先行している事は明らかなのである。初期マトゥラー仏の内に、数種類の異なる肉髻が存在し、しかもその意匠がことごとく初期マトゥラー仏の内にしか存在しない事は、初期マトゥラー仏の肉髻の意味をさらに怪しませてきたのであるが、我々の解析とその検証は、この事態の必然を個別の造形の検証に基づいて、合理的に説明する事が既に可能と考える。

ここまで、カトゥラーの仏坐像に特有の連鎖構造を具体的に検証してきたが、同じ単位図形の連鎖規則の異なる構造や単位図形自体が異なる連鎖構造が、我々の検証の下で、今のところ僅かながら発見されている。我々は「花のかたち」を単位図形とする構造を、便宜的に「五角連鎖構造」と呼んでいる。これに対して、同じ初期マトゥラー仏に、単位図形を正六角形とする連鎖構造が存在し、これを「六角運鎖構造」と呼び区別している。この「六角連鎖構造」の今のところ唯一の、しかしながら極めて重要な作例の解析によって、初期マトゥラー仏の特異な肉警の意味を、さらに明確に提示する事ができるのだが、考察全体の説明の便宜上これを後半部分で提示する事にしたい。

[密教への展開]
さらにもうひとつの事実は、仏坐像の中心線上に存在する交点の位置が、「後期密教」で体系化される、人体の中心を走る線上に連なる主要点であるチャクラの位置関係に、ほぼ一致している事である。(チャクラについては、「後期密教」に関連した多くの書籍に詳しいので、ここでは説明を省きたい。加えて、「大日経」には、世界総体の本質を五つに分類し、それをやはり身体の中心線上の要所に配当する「五字厳身観」が説かれているが、これはこうした着想の先駆形態と考えられる。この事例は、「大日経」以後の密教の流れの内にまで、この像が伝える思想理念が大きく関与していることの一例にすぎない。この像の打ち立てた理念は極めて堅固な世界認識として確立し、「後期密教」に至るまで大乗思想の根底に併存し続けたと我々は理解している。その根拠はこれ以外にもいくつか求められ、本考察に順じて提示する用意が成されている。「大日経」以後の密教における展開のこうした足取りは、意外に明確に経典資料および造形遺品の上に残されているように思われるのである。特に「後期密教」の理念が、この像が示す世界認識を[隠れた]論理の基盤としながら、形式化の適う解釈の可能性を模秦し、これを独自の理念に融合変容させていった痕跡は、展望したところ、途方もなく奇妙な様相を示すかに見えるのである。だが、それにもかかわらず、その論理の内部では確かに十全な合理性を築きあげているとも言えるであろう。


9 仏教史におけるマトゥラーの理念の位置

「カトゥラー出土仏坐像」の解析とその検証は、概略においてその本質的内容を合理的に提示出来たものと考える。以後の考察は、解析から見い出された連鎖構造自体が、仏教史的な視点にのっとって、どのような意義を担うかについての仮説を述べたい。

[マトゥラーの理念と仏像の起源]
単体としての「花のかたち」の作図法は、我々の他の検証において、バールフットやサンチー第二塔のストゥーパの造形の内に、数種の明確な作例が見い出されている。これにより、「花のかたち」を用いて造形の構造規定を遂行する方法自体は、この仏坐像に先立って既に紀元前のストゥーパ期に確立していたものであり、これを含むかなり高度な幾何学の成果がマトゥラーの造形集団に伝承された事は確実と理解している。こうした幾何学の高度な知識がなければ、そもそもストゥーパのような複雑な構造物自体が建造されえたはずはないのである。カトゥラーの仏坐像の造形者は、マトゥラーの造形集団が伝承してきたこの造形手段への洞察を推し進め、さらに詳細な造形上の規定を模索し、その結実として、ついにこの連鎖法に到達したのだと想像されるのである。

しかし、このような造形技術の側面に目を向けるあまりに、この造形者の模索を単なる仏像の構造規定の高度な一手法に帰結させてしまうとすれば、仏像造立に関わるより重要な歴史的検証の糸口を喪失する事になるであろう。この「カトゥラー出土仏坐像」が、発見されている仏像の内で最古のグループに属すという、余りにも明白な現実において、こうした短絡な把握は阻まれざるをえないのである。我々は、このような把握こそ、真の事態の理解の転倒にあたると考えている。マトゥラーにおける高度な幾何学の進展の結実たる、明確な「幾何学の完結性(完結した仕組み)」の把握こそが、仏像造立が開始される事情の根底に存在したというのが我々の考えである。「幾何学の完結性(完結した仕組み)」の把握に伴って、さらにそれを「世界総体の完結した法」の顕在化と捉える認識は、論理の展開として極めて妥当であり、現代の我々の世界認識をも含めて、思想史的普遍性を持つと言いえるであろう。

我々が想定するこうした仏像造立の初源の事情において、それを促進した究極の要因こそが、「花のかたち」の連鎖構造化であったと考えられる。これを発見した造形者自身、当初は造形上の探求の必要から、こうした模索を実行したのであろう。しかし、この連鎖方法が確立した時点で、この造形者の思考は、さらに重大な局面を展望していた事は想像に難くないのである。すなわち、形式的にはこの連鎖の展開は、無限に可能であり、ここに「特異点を有する無限連鎖平面構造」が、この造形者の脳裏に実体化されていたに違いないのである。

[マトゥラーの理念と華厳経]
結論から言って、我々は冒頭にも述べたように、この像が提示する造仏に関わる理念は、華厳思想の形成に積極的な関与を成したと考えている。この構造化された空間は、「華厳経」に展開する世界観に反映していると我々は推察する。

あらゆる事象を世界総体の必然的な現われと認識し、毘盧遮那仏の究極の悟りにおいて、求心的に統括さ.れた構造体として提示するところの「華厳経」の理念は、ここで明確と成った無限連鎖構造の性質に、根本的に一致していると我々は主張する。我々はこの一致を偶然とは見なしえないと考える。マトゥラーで確立した「幾何学の完結性(完結した仕組み)」への認識と、具体的な作図の成果たる「無限連鎖構造」の検証とによって、「華厳経」に描かれるところの世界認識は、元来の仏教思想の解釈学的側面を帯びつつ、さらに革新的な世界認識として出現しえたものと、我々は理解するのである。

各品に繰り返し示される、こうした「華厳経」の世界像自体が、本来極めて映像的性質を持つことにも留意しなくてはならない。無尽の個々の世界が構造的に連鎖関連し、総体化されている毘盧遮那の世界を表す「蓮華蔵世界」の理念自体が、映像的表現としての際立った内容を呈している。ここに用いられる「蓮華蔵」と言う言葉は、華厳経全体の多くの箇所に現われ、キーワードとなっていることは言うまでもない。またこれも多くの箇所で見うけられる、「蓮華」という語を共有する言棄のひとつである「蓮華網」とは、世界事象の一体的な相互関連性を象徴する語として用いられており、「花のかたちの連鎖構造」(視覚的にもまさに網である)の特性と、その語意とが対応している。

さらに、「蓮華蔵」と言う言葉に繋がる最重要の言葉としてあげるべきは、各品の冒頭に再三登場する「蓮華蔵の獅子坐」なのである。この表現に対して、ここまでの検証を経てきた我々の理解は、この言葉の内容を極めて具体的提示と取る以外には把握する術を知らないのである。我々のこれまでの解析とその検証からの必然的な解釈として、「花のかたちの連鎖構造」における連鎖の特異点は、究極の毘盧遮那の悟り、「無上正等覚」として把握されている事は明らかであり、毘盧遮那仏の悟りの場を象徴する「蓮華蔵の獅子坐」とは、この構造の特性を担うところの「花のかたちの構造を内包する獅子坐」を文字通りに指していると考えられるのである。当然これは、カトゥラーの仏坐像を具体的な対象として、思念されているものと考えざるをえないのである。この仏坐像と、最古の華厳経典の成立に関する定説への時代的地域的検証に照らして、我々は何ら以上の考えを阻む材料を見い出す事ができなかったのである。

「幾何学の完結性(完結した仕組み)」のひとつの現われである「花のかたちの連鎖構造」の視覚的効果は、極めて合理的で美しい。しかし、その基本単位である幾何図形が花の姿を持つ事が(これこそ真の不可思議である)、それを越えて人間の感じ方として美しいのである。この認識は個の感性に起因するもので、普遍的にこれを適用する事を怪しむ見解こそ、本来妥当と言わざるをえない。だが、彼ら泰厳の人々Lも我々の眼と同じく、この図形に花の姿を感じ取ったのだと我々は確信しており、あえて恐れずこれを述べておきたい。おそらく彼らは、この空間を「花によって飾られた光景」と認識し、またそのように名付けたかも知れない。


10 マトゥラーの理念に見る[仏陀の像の形式的意義]

カトゥラーの仏坐像が担う構造の意義と「華厳経」との対応は、こうした個別の箇所の表記にとどまるものではなく、「華厳経」全体の文脈を貫いて濃厚に提示されていると主張したい。「世界成就品」「華厳世界品」「盧遮那品」等には毘盧遮那仏の世界の構造的特性が、一貫性をもって美しく描写されている。これらの表現が写し出す世界像こそ、「花のかたちの連鎖構造」から導かれた理念を、さらに思念的に拡張し展開したものであると我々は推察するのである。この主張の具体的検証は、今のところ、その端緒にあると言わなくてはならないかも知れない。しかし、確実な事項として把握せざるをえないのは、分野も異なり表層的には無関係のように映るこれらふたつの理念が、それぞれ個別の分野の検証に照らした後に、結果的に全く同じ世界認識に到達しているという事態が確認された事である。我々は、こうした認識を検証の基盤に置いた上で、通説において「華厳経」の各品の内でも最古の経典と目されるところの、「十地品」の文脈に注目したのである。「漢訳六十華厳十地品」および「漢訳八十華厳十地品」、さらに単一経典としての二種の梵本「十地経」の、それぞれの国訳を検証した結果、これまで述べてきた仮説に対しての、さらに重要な論拠が表明できる可能性が浮かび上がつてきたのである。

この「十地品」の文脈に対する検証はカトゥラーの仏坐像に刻まれる、ある特別な事項に関わって展開する内容である。その為、事前にこの件についての考察を述べておく事としたい。

[マトゥラーの美学]
「カトゥラー出土仏坐像」は通説では二世紀前半の遺品で、初期マトゥラー仏の内でも最古の遺品のひとつであり、仏像造立の発端に極めて近い時期の遺品である事は先にも述べた。この像の造形者の高い知性については、既に十分に記述してきた訳であるが、この造形者のもう一つの重要なプロフィールについても、ここで若干述べておくべきと考える。この造形者の最大の功績は、「幾何学の完結性(完結した仕組み)」の現われとしての「特異点をもつ閑放空間」を発見し、さらにそれを形式的に抽出しえた事にあると言えよう。しかし、これに着目するあまりに、この造形者の人体造形に関する卓越した観察力と表現カヘの理解を、おろそかにしてはならないであろう。先に検証した知的な側面に加えて、この造形者が人聞自身に注いだ視線の深さについて、この仏坐像が我々に伝えるものもまた大きいのである。ガンダーラや、グブタ期以降の仏像が、深い内面的な表情を形成するのに対して、マトゥラーの像の多くは、開放的ではつらつとした生命感だけをたたえ、心理的要素を全くと言っていいほど感じさせない。これを、内面の表現に未だ達しない、素朴さとして理解する事は、大きな誤謬と言わなくてはならない。仏像は特にグプタ期に入って、急激に心理的な表現をとるようになり、美術史はこれを仏像表現の発展と捕らえてきた。しかし、そのような内面的な奥深さに、仏の悟りの深さを重ね見る感性こそ、極めて近代的発想に起因しているのではあるまいか。グプタ期の彫像こそ、こうした感性を千年の単位で先取りしていたと我々は把握している。しかし、初期マトゥラーの感性こそは、我々の属す文化的背景からは把握しきれない、別の次元の高度な感性であることは知っておかなくてはならない。少なくても、彼らが仏の姿を表わすに際して、その具体的な在り方を上回って、表象しなければならない「何か」への要求を、全く感じていなかつたという事が確実に言えるのである。

カトゥラーの仏坐像の開放感こそは、ありのままの生命体としての人闇の肯定へ向けた、極めて意志的な表現なのだと考えなくてはならない。人体彫刻としても素晴らしい内容を示すこの像の、丁寧で生き生きとした表情の観察を眺める時、この造形者が生命的な可能性としての人間を的確に観察する事ができた、優れた表現者でもあった事が理解されるのである。グプタ期において、仏像は深く美しい内面を得た事は確かであるが、それは同時に、初期マトゥラーの限られた仏像だけが持っていた、もう一つの高度な美学を確実に失った事でもあったのである。

[菩薩の銘の問題]
こうした率直な人聞の姿でもあるこの仏坐像には、他のいくつかのマトゥラー仏と同じく、菩薩の銘が刻まれている。仏陀の明らかな図像学的特徴を示す像に対して刻まれるこの菩薩の銘の問題は、特異な肉髻の問題に加えて初期マトゥラー仏に現われる不可解な要素として、常に怪しまれてきたのである。我々は、この問題に関して、解析上の見地からの、若干通説とは異なる見解を表明するに至ったのである。

[無限間題の本質と「カトゥラー出土仏坐像」の形式的意義]
「カトゥラー出土仏坐像」と、それを規定する「花のかたちの連鎖構造」の現実的な対応は、この図式が形式化を即したところの「悟りの解釈」において、重大かつ本質的な矛層を露呈させる結果となる。すなわち「花のかたちの連鎖構造」が「無上正等覚」への到達において達成される「成道のプロセス」に対応される時、この連鎖構造が内在する根本的意義である無限問題への認識と対時が、必然的に要請されたと考えられるのである。そしてこのことは、現実的に視覚化された「花のかたちの連鎖構造」自体が、無限連鎖の本質を現実的な作図においては疎外しながら、反面その形式性だけを思念的に抽出したものにすぎない以上、この不完結性に見合って、現実世界での実体性を表明しようがないという認識を帰結する以外にないのである。我々の視界に実体性を結んだかに思えた世界総体の姿は、この当然の認識において、依然我々の思念への投影にすぎない事を再び理解しなくてはならないのである。そして、「無上正等覚」として設定されるところの特異点は、世界総体のこの不完全な投影においては、到達不能の地点として形式化せざるをえない事が明らかとなる訳である。

こうした認識を念頭に置いた上での、この仏坐像の最も妥当な形式的解釈は、「この世界における、現実的な生命としての人間の可能性の究極において、その姿が世界総体の中心であるところの無上正等覚の極限の近傍に到達し、究極にそれ自体に一致しつつある光景についての造形」であると理解されなくてはならないのである。「花のかたちの連鎖構造」は、作図の検証による限り、完結した総体的構造としての世界像を表明し、その構造の特異点を、自らの正当な成立規則において開示するかに見える。しかし、この構造の位相の総体は、作図という外的投影によって、我々の思念の内に映し出されているにすぎないのであり、その内的な規則に準じては、むしろその限りにおいてこそ、この特異点は実体的に抽出しえない事が当然理解されなくてはならない。この図式を現実的な世界像に適用する時、この思念上の位相は、人間自身の視界からは、根本の不合理として表明されざるをえないのである。この像に刻まれた菩薩の銘に関する我々の見解は、「花のかたちの連鎖構造」から導きえた世界認識の図式の根底にその存在が明らかとなった、世界総体とその内的存在者たる人間との間に位置する、こうした不合理な「切断」の意義に対しての誠実な考察の履行として、それを読み取りえるという事である。またこうした理解によってのみ、初めて彼らの思想の根幹を知る事が可能となるのだと我々は把握している。

彼らの得た世界モデルである「花のかたちの連鎖構造」は、我々人聞の可能性の側からは、世界総体を統括する真の究極の地点が永久に到達不能である事を、その位相の本質において形式的に提示している。しかし、それと同時にこのモデルは、こうした有限な可能性である我々人間とその営みを、その総体の成立における不可欠な分子として、確実にその内部に囲い込む完結した世界総体として、正当に我々の思念には出現する。彼等の世界モデルはさらにここから転化し、その体系全体を中心化する究極の地点に対し、我々の視界の地平の究極の近傍という、超越的な実在性を付与する事をもって、形式上の整合を得る選択を成したものなのである。この理念には、世界とその内的存在者たる人間の可能性の限界的な在り方が露呈している。菩薩の銘の存在には、浮かび上がった根本矛盾の理念上の意義を正確に把握し、表層的にこれを回避する事なく困難な問題の本質に対峙した、正当な論理への意思が刻まれていると我々は理解するのである。


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