花のかたち(1)
初期マトゥラー仏の構造と華厳思想
八木橋司 1995年


<Part-5>

11 「華厳経十地品」に見る成仏の問題

こうした造形上の洞察に対応していると見られる表現は、「華厳経」の文脈の随所に読み取る事ができると我々は考える。その最も重要と見られる箇所が「十地品」に示されている。「十地品」で規定される菩薩の行と究極の悟りである成仏との形式的関係の提示には、カトゥラーの仏坐像に我々が読むところの、世界認識の限界的な在り方に対応する、慎重な表現の痕跡が読み取れると考える。

爾の時に十方一切の諸佛は眉間より清浄の光明を出し、増益一
切智神通と名け、無数の光明を以て眷属と爲し、普く十方一切
の世界を照らし、右に遶ること十匝して如来の廣大の白在を示
現し、無量百千億那由他の諸の菩薩衆を開悟し、周遍して一切
の佛刹を震動し、一切諸の悪道の苦を滅除し、一切の諸魔の宮
殿を隠蔽し、一切の佛の菩提を得し處の道場の衆會の荘嚴威徳
を示す。是の如く普く盡虚空遍法界の一切の世界を照し巳りて
此の菩薩の會上に来至し、周匝して右遶し、種々の荘厳の事を
示現す。この事を現し已りて大菩薩の頂上より入る。爾の時に
當り、此の菩薩は先に未だ得ざる所の百萬の三味を得、名けて
已に受職の位を得と爲し、佛の境界に入りて十力を具足し、佛
の数に堕在す。

「国訳一切経八十華厳十地品第二十六の六」

菩薩の行の究極においては、既に存在する「一切の諸佛」が眉間より発した光明が菩薩の頂上に帰入し、これをもって「佛の境界」に入る本質的三昧を獲得するとの設定が成されており、自らの精進の結実としてそれが完結するという設定を、意図的に避けていると考えられるのである。こうした設定が成されたのは、「十地品」の作者が、先の世界モデルが内在する根本的な意義を正確に把握しており、これを回避する事なく形式化しえる設定を模索した結果と我々は推察する。

このモデルの無限連鎖の本質を誠実に順守するならば、菩薩は究極においてさえ、自分自身の可能性の側からは、その地点には到達しえないという規定を回避する事は許されない。この認識は、一方において「無量劫修業」という概念によって理念化されていると考えられる。しかし、菩薩の十地の修行が、悟りを究極の目的とした明確な求心性に規定され、形式的体系を形成するものである以上、そこには悟りへの実体的な連続性の、何らかの合理的内容が表明される必要も、また回避できない事であろう。こうした要請において「十地品」の論旨は、この思想上の困難を合理的に取り込みえる在り方として、世界総体それ自体である「一切の諸佛」の側からの超越的な介在に、整合性を見い出したのであろうか?

[梵文「十地経」のテキスト上の不一致箇所の存在]
単独経典としての「十地経」の梵文原典は、二種類刊行されているという。この双方に依拠した二種の国訳の内、「近藤本」を底本とする現代訳「十地経」は、同時に検且した「六十華厳」「八十華厳」「ラーデル本」による国訳に対して、異質な表現の箇所を含む事が明らかである。これが原典の内容の本質に関わる事項であるかは、残念ながら現在のところ確認出来ていないのだが、可能性として以下のような発想を記しておきたい。

[不一致箇所に表出する「十地経」の理念]
先の引用箇所を、この梵文「十地経」と照らすと、そこでは十地の菩薩の成仏を明確には表現していない事が解る。「華厳経十地品」において「佛の藪に堕在す」とある箇所は、この梵文「十地経」では、「しかしながら、正しく菩提をさとった諸仏の見たまう不思議界において十種の知力を円満にするときにのみ、『正しく菩提をさとった仏』という名号でよばれるのである」という難解な表現になっており、明らかに内容が異なるのである。「佛の敷に堕在す」という表現は、より表意的な内容であり、残る二つのテキストの表現もこれに一致している。この梵文「十地経」だけに存在する、「仏という名号でよばれる」という回りくどい表現の真意について、誰もが当然疑問をいだくところである。「仏の名号でよばれる」という表現は、仏自体ではないという意義を同時に内在しているのである。

しかし実は、この疑問こそは「十地経」の諭旨自体が意図する展開において、文脈全体のより本質的内容として記されているものであり、全てのテキストにほぼ同じ内容で提示されているものなのである。すなわち、「ところでもし、かの菩薩に現前している神通の不思議なるはたらきが、かくも無量無辺であるとするならば、それでは如来に現前しているのは、どのようであろうか」という説法会の聴衆の疑念は、むしろ「そのような神通を示す者でありながら、その菩薩は仏といかに異なるのか?」という疑念に他ならないのである。この疑念に答えて、説法者である金剛蔵菩薩は、自らの身体において仏国土を表出し、聴衆は自らがその総体の内にある事を知り、そこで如来の姿を眼のあたりにするのである。この金剛蔵菩薩が実現させた仏国土の在り方自体が、仏国土の現世的な示現者たる十地の菩薩と、その仏国土を成立させる法性の存在者的側面たる如来との関係性を表明するものであると言わねばならない。「十地経」の論旨は、こうした世界と世界内存在者との普遍的な在り方を把握し、それを形式化する試みにおいて述べられていると考えられるのである。この理念は、カトゥラー仏から検証された理念の内容に正確に対応していると言わなくてはならない。そこに描かれる仏国土の様相は、表現上の細部の設定においても、かなり具体的な対応を認めうるのである。

さらに、「このような『限りない法の雲のような』菩薩の地については、無量劫にわたって説明されていくであろうが、いままでのところ、ごく一部分を説明したにすぎない。まして、如来の地についてほとんど説明していないことは、言うまでもない。」という表明によって、それまで述べられた十地以外に「如来の地」が存在することが宣言されている。そしてこれに続いて、「このような知に深まるときに、かの菩薩は、如来と不二にして一なる身体と言葉と心があり、菩薩の三味の力を放棄することもなく、仏を眼のあたりに見て礼拝供養し、恭敬随侍するのである。かの菩薩は、一つ一つの劫において、無際限なる如来に、ありとあらゆる種類の礼拝供養を不思議に実現して、具体的な形ある礼拝供養によって礼拝供養する。そして、さまざまなすがたをとってあらわれる彼らさいわいなる諸仏の不思議な加護をうける。」と、如来と十地の菩薩の関係の定義が、明確に示されているのである。検証した他のテキストも、この部分に対応する箇所を含む後半の文脈は、「近藤本」よりの現代訳「十地経」と内容的に一致しており、十地の菩薩と仏との区別を前提に展開している。しかし、それゆえに、先の「華厳経十地品」に見られるところの、「佛の藪に堕在す」の表現からの展開としては、奇異な印象を拭えないのである。唯一「近藤本」よりの現代訳「十地経」のみが、十地の菩薩を仏との「同値」の存在と規定し、このレトリックによって、むしろ二者の区別を明確にするという論旨に対しての、全体の文脈における一貫性が、読み取りえると言わなくてはならない。しかし、いずれにせよ、十地の菩薩と如来とを意図的に区別した文脈は、検証した他のテキストにも存在しているのであり、こうした内容に、原初の「十地経」の論旨の本質を推察しえる可能性は高まるのである。この梵文「十地経」と、他のテキストとの後半の展開において、ここに示したような、十地の菩薩と如来の在り方の本質に関わった表現の不一致は、他にも見い出だされる。この事態が、一方のテキストにおける、原初の文脈からの独自の把握に起因すると考えるならば、むしろこの不一致の在り方そのものに、一貫的な内容が見い出されると言いえるのである。

[イマジネーションとしての蓮華蔵世界]
また全てのテキストに一貫する、菩薩が十地に到達した時の以下の描写が、極めて映像的な内容を呈している事にも留意する必要がある。ここに描かれる光景の構造的な抽象性が、現実的な花の観察から思念して導かれたとしなくてはならない必然は、本来見い出だし難い事を指摘しておきたい。

此の三昧の現在前する時、大寶蓮華有り忽然として出生す、こ
の華は廣大にして量は百萬の三千大世界に等しく、衆の妙寶を
以て間錯して荘厳し、一切世間の境界に超過し、出世の善根の
生起する所、諸法は如幻の性にして衆行の所なることを知りて、
恒に光明を放ちて普く法界を照らし、諸の天庭の能く有する所
にあらず、毘瑠摩尼寶を茎と爲し、施檀王を臺と爲し、瑪瑙を
髪と爲し、闇浮檀金を葉と爲し、其の華は常に無量の光明有り、
衆寶を藏と爲し寶網彌覆し。十の三千大千世界の微塵数の蓮華
を以て眷属と爲す。爾の時に菩薩はこの華座の上に坐して身相
の大小は正に相ひ穂稱可し、無量の菩薩を以て春属と爲して、
各其の餘の蓮華の上に坐し周匝して園蓬せり。………此の菩薩
は彼の大蓮華座に坐する時、爾足の下に於て百萬阿僧祇の光明
を放ち、普く十方の諸の畜生趣を照して、衆生の苦を滅す。

「国訳一切経八十華厳十地品第二十六の六」


[「華厳経」における毘盧遮那と菩薩の関係]
以上「十地品」の異なるテキストを比較検証しながら、その原初の論旨と「カトゥラー出土仏坐像」から導かれた世界認識との、思想史上の対応についての仮説を提示した。

ここに示した十地の菩薩と仏との世界認識上の構造的な関係は、成立史上これに続く他の品において、法身毘盧遮那如来と、その意を受けて法性の本質を説く大善薩の関係に展開し、形式化され、「華厳経」に一貫する設定として、継承されたものである事は想像に難くない。普賢菩薩に代表されるこれらの大菩薩は、毘盧遮那の世界の法性を統括しえる悟りの究極的近傍に在りながらも、依然我々衆生の世界に姿を向け続けている「法性の現世的な現われ」として存在しているのである。先に梵文「十地経」に見た「『正しく菩提をさとった仏』という名号でよばれる」という表現の真意は、こうした認識において表明されていると考えられるのである。さらにこれに対して、衆生世界に実体的に現われえない世界総体の法性自体へ向けての、経の論旨の思念による存在者的表象として、毘盧遮那の存在は描かれているのである。

以上の内容から見て、思念的にだけ捕らええるところの、世界総体の法性自体の存在者的側面と、法性自体の投射を受け、現実の衆生の世界にそれを表象する、究極の世界内存在者たる菩薩の如来的側面が、現実の衆生の視界において交差し一致する場として、「華厳経」の説法の場は成立していると言えるであろう。「カトゥラー出土仏坐像」が我々に示す理念もまた、この「華厳経」の理念と全く同じ内容を、造形上の帰結として内包していた。


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