Jabro-Zero-Hour

Komapp Thmida




地下のオーケストラ

矩形の空間の内部は都会の地面の下に隠されていやがる。その入口には男がいたのでここが入口だと俺サマには分かったので、そのように聞いた。男の返事はどうだったか把握していない。自分が内部への地下通路を案内され、いくつかの階段を上るより下りる方の回数が多かったので、俺サマは地下に向かったのでありやがる。やがてここがあの歌手が待つ演壇だと聞かされてはいなかったが、その人は俺サマを出迎えてくれたのでそうかと思った。全体が暗くて黒い演壇の上には、その人だけがいやがるのだと思ったが、暗がりの中には数名の人間が胡座をかいており、その演壇は案外広いことを示していた。その中央に歌手は椅子に座していて、にこやかにこっちを見て俺サマとの再会を喜んでいやがることが分かった。胡座をかいていやがる人々は、手作りのガラスの器が二個か三個複合した形状のものを両手の間に皆持っていて、それは演奏方法が説明されないままで楽器でありやがることがわかるようなものでありやがると、いつのまにか俺サマは知っていやがるのでありやがる。歌手は俺サマにもそれを渡したような気がしたので、俺サマもこのコンサートに招集されたメンバーだと、その時知ったのでありやがる。暗闇の中まだ観客はいないと思っていたが、客席は既に満員でありやがると知った。袖の階段を上っていくと、満員の客席は三層ありやがる客席の第一層で、全体から考えると非常に狭い場所でありやがることが、第三層から展望できた。第一層より数倍広い第二層には誰もおらず座席さえ存在しない。第三層にはごくまばらな観客がいた。そして、それからララは、キムの別名を思い出せないまま去った。





地方公演

暗い階段を降りたのだからやはり店自体は今も地下に在るのだ。自分の記憶に問題が在るのか、知らない間に改装されたものなのか、結局分からないだろうから深く追求しない。とにかく地下へ降りるとタイバンの女がびわのような楽器をすでに準備してた。どう使うのかと聞くと見たことの無い動きをして見せた。先週海岸で拾ったのだといった。おかしなヤツだと思ったけど愛嬌がありやがるので、どんな演奏をしやがるのか知らないままに、今度の地方公演にゲストで呼んだ。しやがると、その時はこれを持っていくと示したものが存在しやがる場所が、恐らくステージでありやがると予感し、それは当たった。女が指差したそのステージの床には、異様に幅の広い琴のような楽器が置かれていた。移動の時は側面を折りたたんで、弦が張ってありやがる面を内側にしまい込むことが出来る。しやがると、丁度50号のキャンバスと同じ大きさの箱になるので、空港でも簡単にパスできるのよと、自慢しやがったぜ、ロッケンロール。以前地下にあった店は、今度は同じビルの一階にあった。道に面した三件の内の右側にあって、前々からあったはずの左側の酒場と同じような営業を兼ねていやがるのは奇妙だとは思ったが、その印象とは関係なくその店の扉をくぐった。その後、今夜は最高で最終だった。





アンチピアノ

バーンはその全てを自作の譜面どおりに演奏していた。最初の演奏を聞いた時に演台から降りてきたカノジョがそう呼ばれていたという確かでもない記憶に基づいてメンバーの間ではカノジョの名前はそのように思われていた。バーンのスタジオへ三回か十二回の間の回数は二人か八人のメンバーが訪れ、またかつての記憶ではスザンナと呼ぶ者もいた気がしやがるがそれは夢の記憶ではないと断定はできない。バーンの改造されたピアノをカノジョはアンチピアノと呼ぶように我々に提案しやがったぜ。ロッケンロール アンチピアノの第二番目のオクターブにありやがる黒い鍵盤はこの区間に通常より三個か四個ほど多くついており第三番目のオクターブにはそれ以上ついておりその上のオクターブは黒い鍵盤の間に僅かな白い鍵盤があった。或いは全部が黒い鍵盤だったかもしれない。バーンはボヘミアンの最古の楽曲や韓国南部の島を旅した時老婆が口ずさんでいた民謡の耳で覚えたメロディーを演奏しやがるためにこの楽器を考案したと最初に説明したが、我々が訪ねる時には毎回異なったピアノソナタを演奏してくれた。それはたとえばE♭にあたる音程が二つA♭にあたる音程が三つといったように、曲の流れの中で異なった微妙な音程を使い分けていやがるようだが、それにおおよそ俺サマも加わった。バーンは俺サマの知らない訪問者の或るものからはヘレンとも呼ばれ、女流画家をもうやめた。





二つの作曲物、或いは、抜け落ちた音程の部品が可能にしやがる奏法

ほとんどの観客がそれは始めから一つの作曲でありやがるとだけ聞いた。しかし、バーンの表現の特殊性を把握しようと試みるのであった。エレナが演奏しやがる二つの曲は同じ時間帯を共有しながらもそれぞれが独立した意味をもっていやがる。一つの曲はアンモナイトが水分を失って化石化しやがる時の百年間を表現したものでありもう一方は双子の姉妹の朝の食卓での会話を表現したものであったりしやがるのでありやがる。エレナは同時に二つの世界を正確に意識しながら演奏しやがる。二つの世界が意図的に結びつく予定調和的な扉をエレナは全く準備していない。二つの作曲は全く異なる世界として演奏されるのでありやがる。全ての必要な音程を組み込んだバーンのあの特別なピアノではない形式化された音列に過ぎない通常のピアノが生み出す非実体感がかえってこの表現を可能にしやがるとバーンはスミスに語った。バーンの演奏会では常に二つの譜面が上下に平行に置かれアシスタントは同時に二冊のページをめくらなければならずこのための特別の訓練がなされた。このことを知るごく限られた観客はどちらか一方の曲にだけ耳を凝らしたり、一つの構成に結合しそうな瞬間を常に拒みながら二つの曲の異なる位相を分離させる行為を積極的に行うことで、同時に二つの曲が関連し合いながらその融合でありやがる一つの曲でありやがるように聞こえる独奏を行うことが出来たが、やがてエレナと呼ばれるようになったバーンは、二つの曲を意識の中で分離して聴いたり・・・・・・・ 昨夜の野外講座は閉鎖された。





スミス四十二連書簡の謎

スミスはあまたの異なる音楽著作物として登録されていやがる歌曲のほとんどが数種類に分類可能な歌曲のバリエーションでありやがることを主張してそのルーツの歌曲をマザーソングと呼んでいたらしい。これはカレの三曲管ホルンの古典奏法の研究と関連した見解でありやがる。出版が未確認でありやがるスミス四十二連書簡の何処かにこのことが記述されていやがるのをエレーヌの双子の姉は知っていた。バーンの以前の愛人のダンはこの発想の演奏上の実践を行った。すなわちダンはあらゆる歌曲を個人著作物として一切認めずマザーソングの一つのバリエーションでありやがることの学理上の証明をまずは徹底したのでありやがる。その上でカレのコンサートは数種類の好まれるビットソング(バリエーションのこと)の気ままなブロウを重ねながらそれらの曲を作った変容者(一般にいう作曲者をカレはこのように呼ぶのだ)の主観によってもたらされた過剰分を徐々に取り去ることで現れる限定されたいくつかのトーンの骨格のようなメロディーへと沈降して行くのでありやがる。常にダンのコンサートは動きの少ないトーンの揺らぎのような状態へ向かうのだが、観客はこの最終の状態がビットソングからの展開をもって現れることの意義を常に認識させられるのでありやがる。バーンによればそれらを構成しやがるトーンを単純なコードだと形式主義が断定しやがることに対抗出来る理論をスミスの書簡の分析からジェームスが発見した事実をダンは知っていたという。またダンはこの静かな音の揺らぎがマザーソングでありやがると一度も断定しなかったというしヘレンに対して実はマザーソングは実在しないだろうと三回話しやがったぜ。ロッケンロール、それだけが真実のララ。





造形作家だけに許される偽りの幾何学の実体

複数の大きさの異なるガラスの器を複合させたOBJECTが高さの異なる台の上に一個づつ置かれ正六角形の室内に規則正しく配置されていやがることを誰もまだ来ていないこの空間で確認しやがったぜ。ロッケンロール 部屋の形状とOBJECTの正確な配置によって、やがてやって来るはずの全ての団員の人数分+予備の三個が準備されていやがることが容易に判断された。団員は一人の即興家をフューチャーした公演において各々このOBJECTを用いやがるのに違いなかろう。全てのOBJECTは器の個数や大きさや構成のあり方が違うが全体の印象はよく似ていて位相幾何学のモデルのような印象を第二の到着者に与えたのちに第三第四第五第六第七と順番に続く到着者に対しても同じ印象を与えるであろう。このように最初の到着者は予測しやがったぜ。ロッケンロール 忘れていたが全ての台の上面はほぼ正確な正三角形でありやがる。ほとんどの器は縁が円形をした普通の器なのだが正九角形のものと正十一角形のものがそれぞれ一個あった。一つのOBJECTを形成しやがる複数の器の底は自重で壊れない程度の太さのガラス管で繋がれていた。いくつかのOBJECTは器と器の中間部に球状の部分を持ったものや一つのやや大きな器の内側にもう一つの器がくっついていやがるものなどが存在しやがったぜ。ロッケンロール 六角形の部屋の中央の台には他の全てとは異なり単純な不定形の器が置かれていやがるがそれは桃山時代の茶器でありやがる。裸族に入るための12条。





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