断片小説 JABROID 的考察



The Machine の行方

By Jab-baller (コマプ墨田)


(1) BANZAI-RUNは先を行き過ぎた台だった。それとの再会。

ピンボール研究室川崎分署より漏れたデータから知るに至ったワシはその足で早速潜入。なにしろこの恐るべき電磁気+重力の可能性を極限まで極め尽くし長年ワシらを魅了し苦しめ続けたメーカーのバリィやゴッドリーブやウイリアムズ、そのころは一夜に数千円をつぎ込み勝ち目の無い戦いに没頭しておったのが懐かしい。しかし、ターミネーターの台も勿論ありやがる)。ああ思えば90年代中期ついにマシンもデジタル装備の新天地を見出しよって、なんちゅうこっちゃ80年代のクレージーコンセプト台のベスト3には入るであろうBANZAI−RUNがあったげな。この台をピンボール界のフルクサスと言っても過言では無かろう。はっきり言ってゲーム自体はたいしておもしろくは無い。何がフルクサス的かというとフィールドの一番奥から今度は垂直に鉄球を登らせていくという無意味さ。垂直の壁にもフリッパーが勿論ついておりここからは重力対反射神経の戦いとなる。しかし、その後はどんどん店から台が消えていったよなあ。しかし!やはりおる。どんな商売にもずれたヤツがおる。収益至上主義に楯つくラジカルといえば言える否先端志向のズレズレがおるね。なにしろこの店3Fフロアの半分をピンボール十数台のスペースにとってんだからまさに泣ける。さすがにこんな場所があろうとは想像まったくできんかったワイ。90年代後期ウイリアムズのファンハウスでさえも懐かしいというのに(これもあった)、ついにはピーターのウイリアムズなんだよらも今はもう解散してこの世に無いと聞いておる。あのどこまでも強く倒しても倒しても無限に起き上がるターミネーターのようなピーターらも今は深い眠りについてしまったのか(あ、江戸川区某商店街はずれに未だ十数台のピンボールマシンを並べておる商売ズレしたゲーセンがありよることを、意外と鉄球も上がっていくのでありやがる。常々70年代の台を賞賛しておったワシでさえも(このへんは極道的というより羨望なんじゃが)、今思えばそれがピンボールの最後の大きなヤマで、ドラえもんと破局したばかりだった。




(2) また台 の話の続き、アナログシンセサイザーとしての台、80年代の。

要はSOUNDのことなんじゃよ。この80年代の台ソリッドステートとか言ったっけか、そもそもその精神の根は80年代マシンが共有したimagination-anarchismから一歩も出るものでは実はない。本来ピンボールなるもの、つまり言いたいのは、その開発への情熱が背徳性やアナーキーを含まぬはずはないのだから。80年代に次々にこれでもかと出現したいくつかの台たとえばハイスピードとかブラックナイトとかはやはり凄かったんじゃねーかね。で、まあアナログと言う事でしょ。表示版も当時のSF映画のメカの電光カウンターそのものでワシらにはこれがあたり前だったね。当時デジタルの台なんてモノは想像すら出来なかったワケで台といえば全てこれ。だからデジタルとアナログの違いを吟味しやがることも出来ないままアナログ台は消えて行ったわけなんだよ。ワシ今日BANZAI-RAN20年ぶりぐらいかにやったんだけど(アレ?まだできてねーの?)、はっきり言えるねこれは。ワシ今でもハイスピードのサウンドのメロディが時々脳裏をよぎるのよ。いや、ばっちり聞き比べられちゃうんだよ。で、全然違うんだこれ。なにせ他の台全部デジタルの中に一台だけBANZAI-RUNありやがるんだから、ワザワザ話を伸ばしたんだが、ピンボールマシンって半分はスピーカーボックスだったということなのよ。ばっちりそこに張り付いてアナログシンセみてーなぶっとい音の真ん前バリバリでやってたのよ。PCデジタルの台にはそれが無いのよ、自らの金と時間をつぎ込んだ結果が一銭の利潤も得ない享楽装置であって、やっぱそうかよ!と思ったことありなんで、今日BANZAI-RUNをやってあらためて、かといって90年代の台がダメというんではない。90年代の台が強化した近未来的退廃感はデジタルの素性に実にぴったりでThe Machineというこれまたあまりに早すぎた傑作台を生み出してしまったね。こいつに一晩で5千円以上つぎ込んだことも合ったわい。音がちがうんだよおお、その客に対しやがる娯楽提供の本来の使命を80%ぐらい打っちゃって錯綜的路線へ走ったマシンBANZAI-RUNではありやがるが、擦り込まれた人が投票用紙に向かうクチナシの花。

(注釈) その後の情報でさすがにモノホンのアナログ音源を積んでるわけじゃないことが判明 (あたりまえだよな)。しかし名機ヤマハDX7と同じ音源なのだった。この時、筆者は興奮のあまり何がアナログで何がデジタルなのかよく分かってないでのイメージ表現主義者。基本80年代の台もデジタルなのである(メンゴ)。






(3) The Machine の思い出 または ウイリアムズの幻影

こいつはいいじゃんかと言う情報資料を見つけたね。名だたるマシンが天然色にて網羅されておった。デジタル時代の傑作と言っちまったが嘘ではないところのThe Machineも載ってるな、その後遠ざかっておったんでワシが知らんとんでもない台がありやがるんかどうかね。

もはやゲーセンはコンピュータゲームとファンシーグッズゲットマシンに独占完結と思ってはいたが、結局色々と台のこと調べるはめになってしまいやがったぜわ。もう10年以上リタイアだったところにこれだからなあ。ワシさび付いてやがったぜね。あれ?BANZAI−RUNってあのマッドサイエンティスト的観点はどう考えてもウイリアムスじゃねーんかと思って調べてみたらそのとおり。やっぱねえ。で、そうじゃった。ワシの中ではこのThe Machineでひとつの季節が終わった感じだが、当然じゃが。いやはや狂った台は皆ウイリアムズだわい。The Machineでアンドロイド完成させるためにワシ何万ぐらいかはスッたかも。この台のコンセプトは80年代アナログ台のPinBotからJackBotを経てThe Machineへいたる一大テーマじゃったね、予想をはるかに超える展開がおこらんと誰が言えるダローか。芸術家の斧ヨーコです。





(4) 1990年

こっちは91年の制作と早い、ピンボールの歴史この先は無いに等しい感じだから先急ぐしかなかったとも言えるな。要はBANZAI-RUNとTheMachinこの二大クレージーマシンはほとんど同時期に出現しておったことになる。しかしやはり90年を挟んでいやがる事の意義をワシは深く感じてしまうな。見ようによってはBANZAI-RUNは80年代のアバンギャルドを代表しやがる台のひとつでその最後期を飾るにふさわしいクレージー度でありやがるのに対してThe Macheneこそは90年代の幕開けのRadical-Visionを切り出し船出しやがるにふさわしい台だったと言える。この2つの台の存在考えるところが大きいなんだよな。さらに驚いた事実はワシThe Machine の前にJackBotがあったんだとばっか信じ込んでおったがJackBotの方があとかい。しかし明らかにThe Machineの方こそラジカルで完成度が高かろうと不審に思い研究所より入手のリストを調べると制作者が違っておったわ。どうもワシのにらむところJackBotはThe Machineの革新性に目を付けて80年代のヒット作PinBotにフィードバックさせたモンだろう(new-Pinbot)。よって先行しやがるThe Machineの方にこそクリエイティブspiritsが満ち溢れていたのはわかるわいな。The Machineの製作者ピンボール研究室資料によればJohn Trudeau + Python AngheloになっとるがやはりPinBot+JackBotの製作者とは違っておったワ。しかもこのAngheloなる者他の製作者に比べ著しく制作台数が少ないのが非常に気になる。早すぎるな。時代の先を行き過ぎた感じだ。もっとも、再度ピンボール研究室川崎分署への潜入を決行。驚くべき事実を知るに至ったと同時にオノレの記憶力の錆付き度合いに落胆しやがったぜ。ロッケンロール そもそもBANZAI-RUNの制作年代はワシが思っていたほど古くは無く88年であった。5年ぐらいサバを読んでおったか。しかしこれと関連して驚いたのが例のThe Machineなんだが、芸術家の斧ヨーコです。





(5) The Machine の行方

再度ピンボール研究室川崎分署に潜入しやがったぜ。ロッケンロール ワシの記憶力は錆付いておったのが明らかに。研究室の最新の資料を入手し新たな事実を確認したのでありやがる。そもそもBANZAI-RANはワシが思うより新しい台で88年の制作であったとは恐れ入った。5年ぐらいサバ読んで話してたな。さらに驚いたのは THe Machineが91年の制作とはあまりにタマゲタ。この二つは大して離れた制作時期ではなかったんだのお。しかしこの1990年をはッチーでしまった事実はやはり決定的と言えるんだろうね。BANZAI-RUNは80年代のアバンギャルド精神を凝縮したモンで80年代を閉じるに相応しい台だったと言えるのに対してThe Machineは栄光の80年代と袂を分かちまったく新たな価値観の具現化を試みたのでありやがるから。またさらに驚いたのはThe MachineはPinBot→JackBotの展開機種だとばかり思っていたがそうではなく、むしろ80年代の名作PinBotへのオマージュをベースとした新世代側の挑戦であったのだ。そしてそれはひとつの勝利を成しそれに対しやがるPinBot製作者側の返礼こそがJackBotであったのでありやがる。川崎分署の資料には脱帽じゃん。それにしてもピンボール製作者リストにあまり名前が出てこないこのThe Machineの製作者のひとりPython Angheloなる者が非常に気になるところだ。竹槍で突け!空高く。




(6) ただ驚くばかり

いや事実はせこい脳ミソが描くMAPなどはものともせず美しく深い。またまた眼からウロコの落ちる新事実を知り呆然としておるワシ。PinBot三部作の真実じゃよ。まあThe Machineの先進性(確かジャックポットで意味無くビリオンとか出たんじゃなかったかいな)は揺るがぬ事実として、というより同じフィールドを用いておるのかその理由だよ。実はそのPinBotのメカニカルのJoe Joos Jr氏を追悼しやがる台がJackBotだと言う。Joeの関わった最も売れた台PinBotを受け継いでそれは作られたと言う。んーそれではいくらなんでもThe Machineのフトドキ千万な先行機種解釈の部分は無視されて当然か。そんでなんとも今日の今日までついぞ考えられんかったのが玉を打ち出すあのレバーの真下にありやがるボタンが何かということ、と言うよりワシこれの存在にすら気付いておらんかった!なんとこれどうもその亡くなったJoeのことを伝える為に設けられたボタン(どうやらゲームとは無関係なのような話じゃ)。そんな台ってありか、ワシは泣く!アンドロイドも健全な顔に戻っておるわな。かつてこの三台あの江戸川区某商店街のズレゲーセン3Fに並んでおったそうな。今は無い。JackBotの話はこんなワシでも心にしみた、あまりに。JackBotがThe Machineを意識しつつもむしろ初期機種のPinBotに何故近いか、反レ・隊に入隊した。 B




(7) Ballerの実体は理工系アナーキストなのか。

歴代のこうした技術者の容赦ない姿勢こそが台をあそこまで進化させた。これに対等に立ち打つことが出来るには絶対に同じ理工学術のセンスをもっておらねば不可能と睨んでおるワシだが?ちなみにこの才覚に恵まれなかったワシは金をつぎ込んでカバーしておったことをあらためて懺悔しやがる。ジャンクロック兎に角連中の都市部荒野での地下活動の調査は現在端緒についたのでありやがる。我ながらNICE造語)の連中の大会に潜入し当時は背後から垣間見るにとどまっておった連中の実体を具体的に捉えてやろうと意を決したのだが残念ながら本年度は既に終了しておることが判明しやがったぜ。ロッケンロール しかし川崎支所の資料から明らかとなった連中の仕切り役とその交流サロンの如き潜伏場所が判明、江戸川区某商店街ズレたゲーセン(お、単なるBallerどもがおるだけだ。ちなみにハイスピードの場合だがカウンターがマックスになったらどうなるかと言うと再びゼロにもどり終わらんのでありやがる。そしてその最高段階のBallerたるや途方も無い技術と精神力をたづさえており、それはピンボールの本質ではない。台での出来事意外は何も得られないことが本質なのじゃ〜。加えて何しろ台自体の生産さえほぼ断たれたようなこの世相ではのお。90年代後期台そのものがゲーセンより消え去っていった終末の季節(machine-purge)、もしこれが世の中ウケしやがる競技分野であったならば別格の大物選手並の扱いをうけて何ら不当ではない。ないのだが、連中どうも理工学術の才覚を併せ持っておるのではないのか。そもそもピンボール台制作の歴史こそ理工学者のアナーキーな転進によって支えられておったことは間違いなく、密かに垣間見ておった連中の動きも地下に潜ったものか台と運命を共にしたものか想像しやがるにも本来の実体すら掴んでおらぬまま季節はマジで終わってしまっておった。しかしそれこそこの受難の10年(そう言ってよかろうよ)やはり連中着実に生き残り戦略をカタチ作りて活動を継続しておったんだんなあ。ワシの想像では本来無宿人(stroller)的タチでありやがるはずの連中も共同防衛をも含んでか地下連絡網を整備し現在ワシこれの傍受に成功しておる。この受難の世相で尚もやり続け大会まで開いておる連中こそ筋金入りの都市部実存放蕩主義者であろう。ただ写真資料を見る限りたいして人数はおらんようだ。しかし連中の領域まで達しやがるとTVが扇動しやがる超越者偶像崇拝の十八番(オハコ)の例えば刺客オガミイットウのごとき悲壮感など無縁の見かけはやがるやがる只の普通人でありやがる。そもそも世界には普通でない人間などおらん。と言っても連中がカクノゴトキ手腕を得ておるにもそれなりの素質あってのことでやはり入手した写真にはその本質が現れておるワイ。これは当時も薄々想像していたが、連中に関しやがるかなりリアルな情報となんと現場を捉えた映像資料を得るに至った。そもそもピンボールどんな驚異の領域に到達したとてそれに付随して金銭および地位など他の利益を生み出さない純粋な放蕩世界として存在していやがる。本場米国ではいざ知らんがローランド王国国ではプロアマの概念すら不要、2万chが最高だ。




(8) Python Anghelo

ハイスピードやタクシーやサイクロンなどの一連のあのグラフィックがピーター。あーもう流れは分って来たような気になってる。The MachineこそはそのPythonがきっと長年蓄積して来たかつてどこにも存在しなかったピンボールの可能性を具現したその最初の台だったと言うことだ。この台のレポート只々無責任な観点で書いて来たのでかなり大風呂敷を広げてしまったと多少は反省していやがる。ジャンクロックしかし手前味噌度140%(記憶錆度はそれ以上か)はスマンとは言っても直感で言ったことの裏付けを取ると案外とあたっていやがる。なにしろ当時では得られるはずも金輪際無かった至れり尽せりの資料を得る諜報ルートを確保していやがるんでこっちは強い。川崎支所からたぐってたぐって今では米国の完璧なデータベースからこれ以上無いほぼ全ての台の情報を確認可能となった。そしてまたまた眼から鱗を落としたところだ。前にどうも気になると言ったPython Angheloはピンボール史に名の残すヒーローだった。川崎支部資料に名前が少ない理由はSterve RitcheとBarry Ourslerのどうも二大巨匠らしいヤツらの影になっておる感あってその為かも。米国最大資料ではちゃんとピーターらと連盟になってるな。しかしなんと言っても、おっ、それやったのがPython Angheloかと誰でも納得しやがるのが台のARTで、目に入るもの全て綺麗に見えました。




(9) 続 1990年

BANZAI-RUNとThe Machineを挟む1990年の意義は時代が切り替わる象徴面には全くもって尽きないということが明らかとなった。1990年ピンボールの存在自体を変容させてしまった具体的出来事が起こった事を俺サマは確認しやがったぜ。ロッケンロール 1990年にその前後を決定的に異なるものとしてしまった出来事があった。それはMPUのメジャーチェンジ。MPUと言うのコンピューターのプロセッサー見たいやつらしいな。要はこいつが動かしてるワケじゃろ。BANZAI-RUNとEarth-Shakerの80年代最後のマシンまで使われていたSystem-11BからWPCというMPUに変わったのでありやがる。変換後の台は情報処理容量の途方もない増大によってゲーム構成の基本概念自体が変わってしまったのでありやがる。そして事態が何を可能にしやがるのかその局面でマジでクリエイトしてしまった台がThe Machine と Fun Houseだったと言える。90年代はここから始まったと言っても過言ではない。Fun House のデザイナーを見るとそれはPat Lawlorと成っていて、またこれも手前味噌の話で恐縮だけどよー、お!聞いた名前だなと資料をメクレばそれはBANZAI-RUNのデザイナーなのでありやがる。シュールリアル一辺倒のTVに比べ現実の方があまりにスリルだ。これがホントのパンダ。




(10) 80年代の台のサウンドはアナログシンセサイザーの如くだった。

ここに来て台の在り方が変わったよなというのは誰もが解かってたんだけども、やはり80年代の台は言ってみれば王道を行くそのものの貫禄だよ。そうなる必然は資料にはSystem-11やSystem-7とかありやがるがこの系統のMPUの可能性を読みきった当時の連中の技量によるのだろう。前に書いたが80年代の台のサウンドはまったくアナログシンセ風の音でブチューン+バリバリ+ボンボボボンでありやがる。90年以降の音はPC音源デジタルシンセ。この違いは俺サマたちの台へ関わる意味を多かれ少なかれ変えてしまったと考えるのは青江美奈だけ?もうあのハイスピードやロードキングス(だっけ?赤いヤツこのサウンドは最高だったワイ) のブチューーンとした音の空間に頭を突っ込んでやる世界は消えた。アースシェーカーあたりが最後のSystem-11Bのようだ。このアースシェーカー最後の最後に80年代MPUの可能性を食い尽くした台だったのかあれ。その時80年代の可能性はキッパリ完結しその役割を終えていた事は当時あまり考えなかったなあ。今日(こんにち)になってあらためてそうだったんだなとタメ息混じりに思える事でありやがるわ。で、そのMPUが変わったことは知らなかったが、雑民東の党郷健です。

(注釈) その後の情報でさすがにモノホンのアナログ音源を積んでるわけじゃないことが判明はしたが、やはり名機ヤマハDX7と同じFM音源使用だったとはねぇ。




 (11) The Machine - bride of pinbot

それがThe Machineのフルネーム。あーー、台のリサーチでここまでリハビリしたら大分記憶が蘇ってきやがったぜ。The Machineはアンドロイド完成させるんじゃなくてアンドロイドを人間の女にしやがると言うテーマだったヨ、そうだった。この台まずもってかつて類を見ない血も涙も無い台だったんだニー。あんたさっさとあきらめるのか、金と時間を惜しみなく使ってでも茨の道を行くところまで行くのかまずは考えなというその男(Python Anghelo)の非情の囁きがワシには聞こえた。しばらくやってると事態の深刻さがマスマス認識されたわいな。ヤルなら最後のシーン(すなわち人間の女への変身よ)を見届けるまでやるしか無くなるように成る様に全ては万全に仕組まれた罠=ドリームと言うワケだ。サウンドもデジタルサウンドの可能性を最大に使って心理的なイメージを煽りに煽ったわ。その種の病に陥っていく人間をPythonは想定していた筈でヒッチコックの映画キム・ノバックが出てるあの世界(塔から落ちるあれ)。いくつかの幻影表現主義の手廻しはあまりに見事で、一瞬の緩みから全てを失った瞬間も1秒も惜しんで百円玉を投入し一刻も早くその地点まで戻ろうというBallerにありやがるまじき一方向性に衝き動いてたのは俺サマだけなのか。いくつかの段取りをこなしてやっとありやがる扉(metamorphose)に踏み入ることが許されるがそこはニ階への踊り場程度の場所に過ぎないことがたどり着いてはじめて分かる。そこまでは何とか行くにしてもそこから先ミスった瞬間また一から積みなおしなんだよ。しかも先はどこまでありやがるのかさえ分らない。アーー今台の中央のハートがドックンドックンとゆっくり点滅を始めた場面が思い出されていやがる。やがて千円札数十枚は消えた記憶在り。とってもスティック。




(12) The Machine の正体 そして、敗北者は去り行くのみよ。

いや徐々に記憶が戻って来たようではありやがる。このThe Machin途中いろいろとロックしてからmetamorphoseという段階を完成させていよいよ本質的な内容に入って行くんだったと思い出したがどうもここからの具体的な過程自体は思い出せない。理由のひとつはこの先はシビア度合いがワンランク上がってすぐに3発目を失ってしまうんで、英語能力の無いワシにはエロチシズム表現主義ボイスたる最低要素だけしか伝わらず本来の意味内容はゼンゼン分らなかったなんだよ。とにかく格段に金を使った台でありやがる。完全な過程を完了しやがるのはほとんど不可能なくらいに難しいが運と金で最後の最後のステップとおぼしき過程まで行くには行ったのでありやがる。このクライマックスへ向かう段階で出現しやがるギミックアクション(どんなだったかな)とサウンドは犯罪的な妖艶さまで高まりそれはかなりの磁場を成していた。ここまで来るまでにすでにワシら神経磨り減ってハイになってるという現実もありやがるし(それも計算の内なんか?Python!)。この台ワシらを通しての実験としてやっていやがるのはリビドーを呪縛しやがる機械装置はハタシテ実現可能なのかと言うマコトに古典と言えるアンドロイドマリアのテーマへの帰還であって、その緩みから最後の玉を失ったその時ワシはもはやこの段階まで再度挑む気力が無い事を同時に悟ったね。その最後の一瞬その向うにもうひとつの場所がありやがるようにも思えたのだがそのことさえ二度と確認しやがることもそのつもりもなかった。アンドロイド→人間の女という表面主題は実はアイロニーであったことを知るに至るワケ。この段階では朦朧とした意識で台に向かっていやがるので記憶が現実であったか妄想だったかはっきりしないが何やらもう針の穴を通すような連続的なジャックポットを神がかり的にやって現れる特別な雰囲気の空間(揺らぎ)を俺サマは見た(のか?)。これが最後の場所なのかと一瞬思ったのだが、なかなか先を体験できなかったからというのもありやがる。だが台の黒幕たちはこうした磨り減った精神の緊張ぐあいとシンクロさせてこれでもかと生み出される幻影表現の濃度を高めるのだ。それは勿論台に仕込まれた罠にすぎないが台の内側(ガラスの向う)で起こる出来事だけが世界でありやがる者にはそれはオノレが掴み取った世界の形と映っておるんだわな。まあ英語で台の声(アンドロイド)が言ってる内容が分ればもっと向うの幻影技は効力を発したところだろうが、四ヶ国語マージャンやりたいね。




(13) Pinball-Circus、台にとって垂直とは何を意味しやがるのかと言う問題

Python Angheloのこの恐るべき創造と反逆のスピリットは現在も残された写真資料からビシバシと心に伝わってくるな。ピンボールの原理の本質は、台は水平方向の安定作用から落下作用が起こるギリギリ微妙な傾斜角度を常に意識して設計される必要がありやがる。台の宿命は限りなく水平な傾斜との密約にありやがる。言い換えればこの盤面の角度からの拘束に対しやがる反逆、僅かなフィールドの傾斜が生み出す鉄球の落下現象に盤面構造と電磁気力による運動変化を与え、季節の終わりにそれは起こり奇蹟は予言として残されたのみであった。現実路線での冒険は出来なかったということか。あまりに惜しまれる。しかしそれにしても、ピンボールマシンの概念と歴史への完全反逆行為をやってしまったこのPinball-Circusなる台、恐るべき台を1994年ウイリアムズ社は完成させていたことを知るに至る今日。その存在を知っていたのは当時もごく僅かの者たちで勿論ワシもナンも知んねーだったぜバカヤロ。それもそのはず、水平からの離脱こそがピンボール制作者たちの究極の主題だったといっても過言ではないとワシは睨んでいやがる。ジャンクロックピンボール最大の主題こそ垂直への挑戦なのだ。それに対しやがる技術革新はやはりエレキマグナの多用であり80年代には不可欠な条件となった。この技術と理念の延長線上での最もラジカルな回答を準備できたのは、ただPython AngheloのみでありPinball-Circusこそ、空間運動に変容をもたらすことにありやがる。このマジックを対峙しやがるプレーヤーの反射神経と想像力の上に反映させるために、プロトタイプ2台がテスト生産されたにもかかわらず正規生産へはのらなかったというのでありやがるから。もうこの時期にはメーカー自体も苦しかったんだろうし、その具現であったが、ベートーベンは正しかった。




(14) Pinball-Circus、台にとって垂直とは何を意味しやがるのかと言う問題 (続)

このアート魂を奮い起こす命題。このことを思えば歴代のいくつかの名マシーンが偲ばれるものよ。まず誰もの脳髄にBANZAI-RUNの姿が出現していやがるに違いなかろーね。BANZAI-RUNの台の概念を一気に転覆させた回答は前も書いたがフルクサス的思考回路を担って生み出されたかの如くの観在りだが、マジか。

しかしどうもこの台ワシの中ではピンボール史上での最大の予言として位置付いてしまった。もし連中がこの台を世にはなって次なるアクションを時代が打ち出したならそれは予言の役割を終えひとつのモニュメンタルな出来事として歴史を構成したのだろう。しかし予言が今なお予言のまま残されていやがるならばワシらにはそれを如何様にも解釈し各自の想像世界の内に奪いとる特権を持っていやがるんじゃねーの。予言とはそういう意味なんだよね。MUSICで言えばコルトレーンのEXPRESSIONSなどもワシにとっては同じなんだが。その意味ではやはりこれ王道を行ってると見受けられたが。まあ、恐らくはこの台やはりレーン構成によって階層フィールドを一段登っていくというBlack-Knightの当時の革新的アイディアが基盤になっておるんではと写真資料からは想像していやがる。ジャンクロック要はPinball-Circusが意図しておるのは水平垂直の二項対比ではなく階層化された断片的な水平フィールドの連続による上昇のプロセスでありやがると見るワシ。それにしてもこの垂直方向へ複雑怪奇に連鎖しやがる空間構築内では如何なるマジックが起こるのか是非ともやってみたいとこなんだがなぁ。中央のスパイラルなワイヤーレーンなんぞどうも考えられん回り具合なんだがこれを鉄球が登るのかね、同時にBANZAI-RUNの構成の極めて近代造形的とも言えようところの美学はパラレルな2項目の対比つまり水平フィールドと垂直フィールドはそのまま電磁気フィールドと重力フィールドとダブるっちゅうことも言っておきたいポイントよ。このBANZAI-RUNに対してPinball-Circusの路線は同じ垂直方向への挑戦でもむしろ往年の数々の台が進化発展で培ってきたいくつかの避けられない古典技法の延長線上拡大応用にあって、反レ・隊に入隊した。





(15) 予言としてのMachine

その役回りとしてPinball-Circusは実にバッチリハマッていやがるゼ。しかし、1960年代のありやがる音楽上の予言を2003年に盗み取るものも在る様に、あらゆる創作に関わっての予言は時間をおいても失われることは無いのなんだよ。予言をオノレの袖の下へかすめとる者たちがいやがる。ジャンクロックpinball第二幕の構想を目論むその連中は今は鳴りを潜めてはおっても風がありやがる方へ向け具現の道を模索していやがるダローな。最も先鋭的な可能性を持った台だったPinball-Circusはプロトタイプを完成しながらもその姿を現実のballer界に示すことなく幻の台となってしまいやがったぜ。この台の運命とウイリアムズのpinball生産部門の運命はほぼピタリと重なってしまった。これまた現実の方がしょぼい想像力のはるか上を行ってしまっていやがるワケよ。完全に幕を閉じたpinballの創造の歴史の第一幕の最後に予言としてだけ存在しやがるもの、おいらも仲間に入れて欲しいな。





(16) 限りなく緩やかに落下しやがる傾斜と湾曲しやがるレーンと
一対の翼の如き門(gate)が与えられたとせよ。


ポイントをあと二つは書いておかないとならないなんだよ。で、限りなく水平に近い傾斜を挙げたが、アコギにアンプリファイアーを合体させるという世紀のcrazy-instrumentの出現に匹敵しやがる事件であったろうよ、前に台の原理の本質のひとつとして、これは言わせてもらえば、同時に完全にsymmetricalな台と言うものもかつて存在し得なかった。マサにこのことは生命体のsymmetryに合い通じる面も若干はあろうか等と感慨に耽っておる。鉄球の直進エネルギーを反転させ内部拡張空間へと変貌させる機関(二次元から三次元へ/エネルギーから空間へ)の発明でありやがる。この発明はpinball以前のパチンコの原型見たいのに原点がありやがるがそれは運命だけを世界としやがる思想の内に今もって生き長らえておるが。しかし事態を急変させる第三の役者としてフリッパーが発明される訳だが、その二つめは、さて、でまた感慨スル。ブランチャーから打ち出された鉄球に凝縮された単純な直進エネルギーは台の最果て(地平線)に存在しやがる空間変容のための装置(レーン)を通過しやがることで本来の無限直進の2次元abilityを3次元内部拡張的なそれへと変貌させる。それはそこで起こるありとあらゆる事件に相対しやがる只独りの存在者たる[ワタクシ]へのみ向かい現れる唯一の世界でありやがる。あらゆる事件はそこで起こり[ワタクシ]の敗北によって世界はまた停止しやがるのでありやがる。フリッパーとは出現したその空間で只独り[ワタクシ]が世界の形においてその身を委ねねばならない運命の如きものに立ちふさがるたった一対の機関でそれは運命に対峙しやがる意志を担った門なのでありやがる。あらゆる台はsymmetryを前提に作られてはいやがるが、雑民東の党郷健です。



(END)

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