音響無宿

Sound Strollers


幾多才気匠 米ト言フ地ニ現レ
揚々タル楽カナデシ古在リ
人コレヲ深ク懐カシミテ
黒色ヤ鏡面ノ円盤ヲ回セル
電撃ノ術ニ頼リテ
古匠ノ霊気夜々呼ビ寄セタレド
カクノゴトキ回顧ノ世相辞シテ
霊気楽響ノ新規ナル理術探ルベク
自ラ内声ノ所持スルBEAT現ス
機械装置ト学理造レシ者ドモ
尚モ僅カニ現ワレシ


   


   



  


  



   





改札を通ろうとして切符の通し方が分らずトラブっておったようだが、そのうち面倒くさくなったんだろうね、そのまま乗り越えて出てきたPは、乗る時も市ヶ谷ステーションの券売機が発する敬語のクセに全然人間味のない声(voice)に向かって「シャラップ」といっておった。そうこうして、ワシらと合流してJR西荻ステーション北口を出ようと思った時、ワシらは聞いた。それが美しいものか、はたまた、ワシらの今にどうしても必要なものであるかとか判ろうとしないでよかったし。そのまま、ワシらは聞いてることを当たり前としてることにやがて気付いたんだな。(自分の仕事に遅れておるというのになあ。)ああワシらサマータイムってこれまで何十回まともに聞いてきたんかい?バス停のポールの影に隠れるように限りなく夕方の駅前雑踏に溶け込んでおるそのピアニカ吹いてる女がやってるのはまさにその曲。あっ、いつかワシ藤圭子がサマータイム歌うの聞いてみたいと思っておったワイ。それにふと気付くワシ、内容はほぼ関係無かったのだが。いや、一応駅前の人中で演奏するからには表現者であろうもんだが、まことたたずまい密やかで、あれだと、ほとんど帰宅を急ぐ人々は気付かぬか、まあいいかと思うぐらいなんだよネ。ワシもPが、ちょっと待てよと言ってくれなきゃ気付かなかったこと確実。やっぱ、長年やってるとさすが聞き方も肥えとるちゅうコトだな。まあ、風景の中に隠れ入るように自分の存在を希薄として、現れるのか消え行くのか判らないミュージックというのがそんなところで実践されておったんだよなぁ。いやこれ思い出すにつれ、かつて山崎パン2Fで聞いたスイング感のまったく欠如したデューク・エリントン楽曲ピアノソロの衝撃的可能性にも匹敵するような気が最近してきたワシ。しかしワシらも急いでおったんですまんが一曲の最後までも聞かんかったんだけどね。その時の旅でも、いくつかの





 




    






by コマプ墨田 1997年

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