JABRO演舞場-QQQの実態
第一章

計画再開にあたっての当局の外部っちゅうことでの運営方針



著者 コマプ墨田


第一話 最初に良く分らんのだけど社員一同

とにかくなぁ。やられちゃったらそれまでなんで、まずそんな道理の分らんことは今時世間でないんじゃないのなんて、もう花園気分でやってはいけなくなったのだぜヨ。芸術も音楽もここまですべーっとマッ平に出来たから、安心して全部金銭仁義の島の理屈で絡め取れると、もうふんづけられたからは、某局の朝昼惰性ドラマの「失敗の無い人生とは何か」という完全単一路線のバージョン○○のシナリオのようではあかんわ。

なぜQQQが追徴○○○万円払えと当局に言われるかもしれないのか、その理屈が良く分っておらんと、その時になって対策では遅いワ、やられちまう。この島でハコ出すんだったらこうというあっちの理屈は単純で、月○万○千円収めるべき義務があるっちゅうことでしょ。上納を怠った過去○○ケ月分の総額がそれだと言ってくるらしい訳だが。しかしな、そんな会費みたいのをを払わんと営業できないと言うのは何処の法律によるのかと誰でもまず思うだろうよ。ようは見ヶ〆料ちゅうのとはこれどうちがうのかとなぁ。



音楽と言うものには作ったヤツの著作権というのがあるぐらいは誰でも知ってるし、ワシも知ってる。これを払らう義務というのは聞こえはいいとして、なんで一律月いくらいくらなのかが社員全員分らないありさま。やった以上は払えと言っても、何時誰がQQQでやったか言ってくれんと分らんぞと思うが、細かくは調べん代わりに大体これで納得しろということらしいわ。へんな理屈その一だわ、まずこれ。○○年○月○日にウチの組のもんが出て○○てー演目をやったろうからこの一件で○万円お支払いだろうと言うのなら社員も意味分るだろうけどねぇ。そんで輪をかけて分ら無いんだが、その対象不明で徴収した金は誰に行くのかい?会員の権利を守って徴収しとる訳でしょ一応対面としては。しかし、誰の曲の著作使用か分らないで集めてんだから払う相手が分るはずも無いのだろーよ。どういうこと?


第二話 時間差攻撃はやめなさい

あっちサイドのミュージッシャンかどうかをいちいち面わってどうのとセコイ事を言ってもどうかとは思うが、黙ってると、こんだけコケにされるとなれば、演奏屋も当局会員である場合はだよ、自分からそうなんだとまずヒトコト言ってもらわんと、仁義外したことになるでぇ。そりゃそうでしょ、契約って言うのは口頭でも成立しとる訳で、○○人お客入ってチャージバック○○パーってことでOKスカ?と言われて、OKOKと言ったらそれで話はついとると普通は思う。もし、万が一、オレらの曲には著作使用料というのが別途ですゼと言われればだよ、ワシだって、そうなるとバックは△△パーで頼むしかないけど、無理だったら今回はできんですわとキッチリ言うわいな。その辺は何も言わんどいて、何ヶ月か何年かしてから、あれもこれも累積ハイ○○○万円ですとかの話のネタに使われておるんではまずかろうと思うのだが。

で、ワシとしては話をもっと分りやすく考えたい訳だ。ようは、当局とその会員ミュージッシャンというのはひとつの関係組織でしょということだな。どっかのハコで演奏してくるミュージッシャンがいて、時間をズラして著作使用料をとりに来る別役の当局担当者って構図。これがものごとを分らなくしてるな。もちろん、理屈が合ってれば著作使用料を払わんとは言わない。しかし、ちゃんとその道理を契約時、つまりさっき言った出る前にギャラの話をちゃんとワシがした時にだね、説明しておるかというとおらないんだよ。ちゃんと言ってくれてれば、採算合わんとなればスマンけどそりゃ無理だわと明るくお断りする。

よって、我がQQQではそこをキッチリやることにする。つまり、その訳の分らん時間差攻撃はうけつけません。もし、著作使用料を別途請求というミュージッシャンは、その額を言ってもらう。こっちの経営ラインと合わない場合はその段階で悪いが話はナシね。その上で折り合いがついてやると成ったら、自分で著作使用の手続きをとっちゃってくれれば問題が起こらない。自分でやる曲だからその方が全体見れば手間が無い事になる。なんせ、いつなんて言ってくるかあそこは分らんのだよ、10年後かもしれない訳だし。



第三話 21世紀のオレたちの耳 (店員墨田のホザキ)

CDが売れないとビッグレーベルは問題視しとるよね。その主犯は違法コピーだと言われてるけどねー、こりゃぁどう考えたってそればかりじゃねーだろーよ。もう、ホントは国民は醒めちゃってるんじゃないの。他に無いから聞いてるだけでさ。無理にゼニはたいてまで買いたいなどとは思わなくドンドンドンとなって来とるのではないスカ?だってな、音楽を聴くことは、無茶苦茶難しいコトだよ。知らねぇうちに犯罪者になる可能性があることを数々の気難しくて恐ろしい結末の訴訟事件で知らされとるし、買ったCDも独りで家で聞くことしか許されないツ〜マラナイただの物体だし。(おお!そう言えば、昔、レコードの溝の隙間に、アグネスがレコーディングした時のスタジオの空気が残存しているのだと言っていたアホとは25年も会ってないなぁ。)

どこかで声をあげて歌っちゃったら、こりゃぁもしや犯罪なのでは?複数人でCDを聞いたら取り締まられるのでは?口笛を吹いたら捕まるのでは等など、日々ウワサが飛び交ってる。しかも鉄の拘束のリアリティーは結構あって、合唱会で子供達はまずみんなこうつぶやく。「さあ、みんなで聞こえないように歌おうよ。」

こうなると、まず音楽著作権管理当局のHPのよくある質問コーナーを隅から隅まで読んでからじゃないと、迂闊にCDなど買うことは危険だろー。音楽を聴くことは自由へのマイナスベクトルとなっちまって久しいね。重〜い雰囲気がチマタに充満しとるやんか。ますます、結局CD売上のダウン傾向は構造化だと思わないではいられないとジョニーは嘆いていた(←CDショップ店員)。ところがそれに対して、MP3を使ったインディーズ連中のネットでのオリジナル配信は絶好調。タダだしいくらでもダウンロードして好きな場所でかけてOK。素人の方がなんか面白いワヨと喫茶バーバラのおばちゃんも言ってた。著作権は要らんとは言わないけどもだ。何処にでも気体のように流れて行く自由の方がとりあえず人間になれるってことよ。重石20キロのっけて踊れと言う施設からはとりあえず立ち去りまひょょ〜。で、リスナーの耳もそんな風な自由の方がいいってことが分ってき始めたんじゃねーの。ネットからのインディーズ曲をダウンロードしてオムニパスにしたCDRだけをかける店舗が現れ始めてんのがその証拠。しかも、これに眼をつけた海外の半メジャー志向のレーベルも動き出す気配。メジャーには負けんインディーズ魂だろ、それはワシラが先にやってんだ(←スカムキング談話)。あるいはねぇ、これが真実の行き着くところかもな。意味なく勝手な音楽なんぞ無い方がよっぽどいいちゅ〜コト。ひっくるめて、これはどうしたってOKな方向じゃんかよ。



げ、するとなんだぁ?キッチリ弾けるギターとかの連中はいいよな、室内楽とかならもう引く手あまたってところだろ。連中、ライブでのCDRどんどんハケルんじゃ無いの?ワシらのサウンドの需要も無いもんかなぁ。どっかでなあ。


第四話 勝手に取りに行くヤツがいる

しかし、こういうのもあるんで気を付けないとね。ちゅーのはだね、ワシらのボスが西の島国から来てくれたんでこっちの島でもいろいろやって周ることにして、QQQもしばらくおっぽって旅回りに出た。ワシらとボスの一座は、自由音響主義の真髄を目指しておるから人の曲はほとんどやらんのだね。で、ボスはもう極まったやり方で、鳥が自由に空間や木の枝や何処へでも、とまったり飛んでったりするように、歌ってるように唸ってるような、あるいはその逆でもあるような自由を、西の島ではやってる訳だよね。この自由主義の最高な姿、いいよなぁ。西の島はここ東の孤島と全然違って、自由表現主義者の存在を尊ぶからなぁ。ボスみたいな人をどんどん社会がとりあげていくよね。

あん時も、基本、ワシらボス以外のメンバーの無責任感覚と、ボスの究極の自由感覚の矢印が、微妙に一致してるかもしれないところで、けっこううまく行ってる旅回りだったんだよなぁ。で、ずーっとやって行ってから、やがて何やら海みたいなでっかい湖のほとりの土蔵にたどりついた訳さ。まったくもって、ここの主人にはもう一宿一飯の恩義の○○倍ぐらいの世話になったんだよな。ところがだよ、それがなんとワシらの自由表現主義公演がもとで、当局が金を払えとグジグジ言いに来たというのだわ。げげ、そんな道理はないぞ。なにせ、ワシらもボスも当局管理の鉄の歌集100万冊の内のただの一曲も盗み取ってなどおらんのだから。なぜなら、ワシらもボスも全くもって過去の演目になど興味がない上に、このワシなんぞはほんのワンフレーズでさえ記憶しておく事が出来ないんだからね。なのになんで?



で、こりゃ当局の名を語ったマルチ商法の新形態かとすら思ってると、ついにこっちにメール来たんだよ。そこで、ここぞとばかり、オイおかしいだろそれと突っ込む。当局担当者が言うには、「何でもかんでもやった瞬間に芸術となって即座に著作権が発生するんだよ。知らんのか。アンタらのひとりは西の島の協会のもんだろー。そこはこっちと手を組んでおるんで、その者の著作権はこっちが握っておるんだよ。」と言う。おーそうかいそういう仕組みかいと思う一方、しかしワシらお互いの島ではそっち側に住んでるヤツの曲だけをやることにしとるのだよ。それを最初にキッチリ調べに来たんかい。ようは、今回の旅は全部ワシの作曲物をやってるのだよな。おいおい、当局はワシの著作権をガメちゃってないか?(ガメる=津軽弁で盗むの意。←あ、標準語でも言うんだってか?)当局って芸人たちに分らんようにして、旅の後をつけてまわって、忘れかけた頃に時間差攻撃でちゃっかりやってるんじゃないのかの疑念が脳裏に充満する。○○○作戦かい、それ。

で、せっかくなんで公開しちゃおうかと思うけど、ワシのその作曲物というのが、仏教音楽に属すもので、QQQ仏像研究の過程で学んだ密教の概念をある程度応用させてもらっているんだが、最終完成時は「ウトパラ」と名づけようと思ってる曲のプロトタイプなんだ。ワシちゃんと全メンバーにこれを今日はやるよ、ボスもOKだよね。と断りを入れて全員OKしてるんだよね。でも、ワシの曲はメチャメチャ難しい訳よ。どのくらい難しいかと言うと作曲したワシ自身が出来ないくらい難しい。よって、たいがいのメンバーが本番中に作曲者であるワシの指示から逸脱したからといってワシは少しも責めないけどね。作曲者から見ると、最初から最後まで逸脱している場合がほとんどだ。やはりどんな芸術でも、最初は失敗の連続なのだな。とは言っても、公演自体はワシの曲をやってるんだよ。んー、たいがい客が文句言うことはないけどね。ドデカイ湖の南の外れから遠路ハルバル、あの土蔵まで来てくれたあの日の筋金入りの追跡者達も納得して帰ってくれた。どうもありがと。

で、その曲の概要はこうだ(↓)。


「ウトパラのための実験的楽曲 A」
作曲者 コマプ墨田
(2002年)

[第一の演奏のきまり]

三人の演奏家がある場合、平行に並んでそれぞれの行うべき役割を、次の作曲者の定義に従って行うものとする。

三人が並んだ線は、本来僅かに湾曲した巨大な円周の一部であり、演奏者の背後遠方に、この円の中心点が在ることをイメージする必要がある。3人が各々の背後に、各々の音響によっての、ある種遠近法的な距離と角度の最も単純な構造が存在する旨、これをイメージできなければならない。それが行われたと同時に、三人は円周と中心点が実在し自らが存在する位置を、空間的な理解として強く確信することができるであろう。さらに、そのイメージされた円形の空間構造の中心点から、自らを経由して円周の外部へあふれ出る大いなる[それ]を、個人の限定的な主観を上回った根源の音響と踏まえる必要がある。

想定される円周上にあって、演奏者Aはあらゆる楽器とそれらしきものとの接触を行わず、自らの声を用いるだろう。

想定される円周上にあって、演奏者Bは、身体の中心軸に対応させた位置に在る湾曲した金属管を用いるだろう。

想定される円周上にあって、演奏者Cは六本のワイヤーをエレクトリックに関係させる可能性を模索し、さらに一般に省みられない楽器らしき何かを10個以上100個以内使用するだろう。

演奏者AおよびBおよびCは演奏に際して、まず演奏が始まり、次に一定の期間それを維持継続させ、その後に終わらせる事によって完結したこの作曲物を演奏する表現者となるだろう。その際、作曲者によって指示された次の譜面を用いるべきである。

. . . . . . . . . .
. . . . . . . . . .
. . . . . . . . . .

個別の公演においての譜面は演奏者以外には公表されない。

この作曲物は演奏時間内の演奏者を完全に規制するものである。

以上作曲者は、第一の演奏のきまりを提示した。

[第二の演奏のきまり]

演奏者は演奏者自身の主人であるべきである。

以上作曲者は、第二の演奏のきまりを提示した。


第五話 自らへも厳しい店となるべし、だな。

たとえばだが、突然乗り込んできた当局担当者に、オヌシの頭では当局管理の鉄の歌集100万冊の全部など覚えられんだろ〜、オヌシの店に出とる連中がそれをやってるかやってないかどうせ管理などできぬだろう〜、ホレ月○万○千円で楽にしてやるからどうだ、しかも後は使い放題だぞ、いいのだよ本来の著作権者がどうのこうのなどとオヌシらが考えんでもよい、ヤツラは当局が黙らせとるから気にするな、バンバン使え、こんな得な話が他にあるか、よ〜く考えろよ。←というような、甘いお誘いの如くに見えて結局これまたシュールなナゾナゾワールドへの招待状を手渡されることも在りうると予想して動かんとね。

っんま、結論はQQQに出るヤツをそこまで甘やかす必要はないということになるな。

ま、そんなに人の曲やりたいんだったら、カバーっちゅーの?ソレQQQだって別にやってもかまへんよ。かまへんけども、それはオノレの責任で当局とナシ付けてもらわんとこれまた仁義外したことになるんだろうぜ? ワシがやってくれってたのむ訳じゃないからな。逆に出来ればやらないで欲しい訳よ。当局のどうのこうのが面倒なわりに世界水準へとどくコトってあんま無いからな。それよっかだったらめちゃめちゃスカムの線のほうが100倍オモロイ。ってなことで、ようは当局モノやるんなら、やっぱやる前に言っといてもらう必要ありっちゅーことだわ。そんで、何年何月何日何時に鉄の歌集第2895番を某合唱団が使用等とワシはキッチリ業務日誌につけとく。で、その合唱団には当局とナシつけとかないと悪いけど出せんよと言わしてもらってる。ま、ちょっと心苦しい気もあるんだが。開店以来、一日も絶やさずこの業務日誌を付け、バンド連中にはキッパリ言ってる訳だ。これによって、他人様の財産を勝手にやったかやってないか分らんような状況はQQQにおいてはゼロなのだね。勿論、ワシにナンも言わんで当局の曲をやったりしたら以後出入り禁止ということの上に、その件は当局へこっちとしても発覚次第報告せざるを得まいだろうなぁ。しかし、逆にワシの方が鉄の歌集の曲目を見抜けなかったとしても、そいつはこっちの責任ではないだろ。だって、黙ってやるなと言ってるこのワシをナイガシロニしてやったことまで責任は取れんぞ。




第六話 で、世界の眼はどう思うかだな。

しかし、なんだなぁ。当局もかなりの覚悟で徴収体制を強化したってことだろうなぁ。島中のハコと言うハコから、月額徴収と過去可能性分総額請求を始めたらしいんで、ネット内騒然というとこだが、我がQQQではこうした事態に備えての、開店以来の業務日誌と出演者諸君への著作権関係の通達(各年更新)などキッチリやって来たんで、なにやら意味不明の理屈で10年分請求とかはありえないと考えとる。ま、ワシがここまでやっとるのに、故意かボケかは知らんが、たとえばデューク エリントンとかコルトレーンとかの曲やってたヤツがおるぞと、当局から証拠だされたんであれば(ワシだって常時QQQにおる訳じゃないからな)、ワシもそいつらにはキッチリそりゃぁ、今からでも払わんといかんだろうよと、やっぱ当局側の道理は説明してやるわな。ソリャ、国民のツトメだろう。

しかし、QQQの業務日誌上ではワシの責任において人の曲などはやっとらんことになっとる訳だが、たとえば、10年分2000曲とか判明したからなんとかしろと或る日突然に言われたらどうするかを想定しての状況を考えてみたのだよ。まあその時は、当局からはリストが細かく来るんだろうね。で、仮にQQQ店長のワシでもいいけど、その一曲づつ誰がやったか昔のスケジュール表と照らし合わせて電話する事になるだろな。おい、アンタら、去年ドルフィーの曲やったことになっとるけど、当局が払えと行って来たけど、次ぎ来た時○千円×○○曲で○万○千円だそうです。げ、それじゃ、ギャラの3倍やんけ!とか、何十ヶ所に同じギャグかまさんとならんことになる。そう考えると、当局の月々○万○千円で使い放題というADSLみたいなシステムも、考えようによっては悪かなかろうという見方も在りだろうね。たとえば、QQQとは逆で、もう毎日毎日人の曲ばかりやる店があれば、そこにとっては、こりゃむしろ有りがたい仕組みとも言える訳か?

しかし、月○万○千円で当局所有の権利、何をやってもOKですで、誰も今まで一言も文句言ってない以上、最高のシステムだと当局が自信満々なのも、やっぱひとえにこの狭い島の話で済んでたからじゃないかね。っちゅーのは、昨日、QQQを視察に来たスタニスラフ氏を囲んでの公開討論で問題になったビジョンなんだよ。ようするにだ、このちっぽけな島で、島内作曲家の何の曲から、いくら徴収してそのシステムがどうで、どう分配されてるかなどは、世界の眼からはどうでも良い。この島のミュージシャンが何月何日某所でやったのに何でオレに支払われんのだと文句をいっても、あんたは金もらえるほどの実績がねぇんだよと言われて、そうなのかと納得してしまったのなら、それは国内問題で完結してるから、誰も内政干渉などわざわざしない訳だよ。ま、西の島からみれば、そりゃおめーら根性ヤワすぎねぇ?ってことになるだろうけどな。

ところが、ここからが大問題。たとえば、JAZZばっかりかけて若い連中にJAZZ演奏の場所つくってやったり、自力でこのご時世JAZZフェスやったりしとるハコへも過去分550万円也で請求してる話がネット上でもちきりだ。この場合の過去侵害分550万円の内訳は、ほとんど海外の作曲物だろう。誰もが知ってる巨人たちが作曲者な訳だよね。(ほとんどはもう天国へ行っちゃたけど。)当局は海外の団体との提携でこれらの曲の権利を預かってるんだと思うけど、徴収した金をキッチリ個々の権利者たちへ分配出来るかどうかというとまずは出来ない。出来ないのに徴収だけは徹底してやる。同じようなやり方でこれまでもやっていることがあるとすれば、このことは国際レベルの疑問となっておかしくないよな。当局がやってるシステム自体が権利者側をナイガシロにしとると多くの国民が思っているが、そのことを全世界もまた思う訳である。



ま、普通に考えて、月○万○千円で使い放題の条件で徴収しとるんだから、個別に分配などできない訳でしょ。(←認識が間違ってたら連絡ください。)この奇妙な徴収と分配の仕組みの実態を世界の眼がそのうちチェックするだろうな。あの東の島の機関だが、世界のJAZZマイスターの権利を使って、徹底的に稼いでるらしいのだが、その金はどうも権利者側には個別に渡されてないようだぜと世界は問題視するだろうな。例のJAZZのハコの話は、ま、その象徴的な一件となるってことだ。解かり安い例というかね。当局がスジは通ると言うんなら、世界中のリスナーとミュージシャンを納得させる為に、明確に徴収と分配の一貫した仕組みを世界に表明するべきだと思うぜ。一曲一曲個別に受け渡しをやっているのだと言うのなら、むしろ世界はそれを尊敬するかもしれないが、そうじゃないんじゃないの。(コルトレーンの曲なんかはアリスにいくのだろーか?ドルフィーは子供いないよね?) ワシら少なくとも国内レベルでいって訳が分らん状態でしょ。ネットに1頁さくだけでいいのになんでやらないのか。


第七話 歴史は繰り返す、アホな事ほど。

世界のJAZZマイスターの著作権で稼ぐ組合の話の続きだけども。そもそも、デューク エリントンやコルトレーンの曲をやったことで犯罪扱いになってるJAZZフェスの件に関して、大新聞各社が主催側がハナッから一銭も払わんつもりだったと、とられかねんような記事しか書けなかった事が原因で、また国民の間に要らぬ誤解を広げてしまってる訳よ。いろいろ周って歩くとやっぱ、そりゃ払わんコンタンが悪かろうと言う国民もおるわね。そのあたりどうも釈然としないので直撃でワシ聞きに行ってみた。そんで解かったんだが→ようはフェスの直前に請求が来たわけだ。でそれが例の自己完結リニア型の計算式立てての、とてもじゃないけどそりゃ無理でしょって金額なんで、フェス側としては収入やフェスの運営状況など詳細説明の上で、当方としてはこれこれの金額までは支払う事が可能ですが、それ以上は運営上不可能ですのでよろしくご検討頂けませんかと、きっちり仁義たてて話をしようとしとるわけよ。つまり、払える線で極力払おうとしているのだよ。しかも、フェス側のやむを得ない最善の行為として可能額は自主的に振り込んだという事実もある。しかし、そんなもんは正当な額と認めないので告訴するということなんだな。それって本当に日本国として在りなのか?(いや、在りなのかもしれない、か?ニッポン・・・・。)

つまり結論からすると、例の当局サイトにある料金システムに当てはまらん活動は存続する必要はないということだな。それ以外の解釈を探したが以上の事実からは一切他を導き出せ無かったぜ。文化庁はそれを認めておいて、なお小中学生に文化教育などできるのかい?(まず銭儲けを学んでから芸術に踏み入ろうね、諸君、ってか?) はなはだ疑問である次第です。

かくのごとき国民的非常事態において不謹慎だと思ってはいるが、21世紀にもなってというか、なったからなのか知らんけども、ここまでくるとこれはある側面から見て爆笑ものでもあるんだよ。JAZZ聞いてる連中はみんな思い出してる或る歴史的事件があるわいな。その事と絡んで笑ってる訳だ。勿論、嘲の着く方の笑い。いくらなんでもこれって、マジ世界的に笑える話というか、笑われる話といった方が正しいだろうが、どっちにしても歴史には残るでしょう。その笑えるネタ出しでワシら国民はやられ放題だけどな。誰か言ったっけか?→歴史は繰り返す、最初は事実として、2回目は喜劇としてと。
つまり(↓)

もはや当局への高額支払いナシでは気楽にやれなくなりそうなモダンジャズの名曲の数々。バップが在ってのモダンジャズってなことに話はなるんだけど、じゃ、そのバップってーのが生まれた土壌が何かって事なのだ。この辺りの話で、誰もが知ってるJAZZ史に残る最悪の事態が期せずしてバップを生んだとも言われとるよネ。当時のASCAPが、掌握していたナンバーの著作権料をガンガン吊り上げた。放送関係の対抗組織で新設のBMIはASCAPの拘束から逃れる為にこれまた所属ミュージシャンへの規制強化で、インプロ部分までも規制するに至り、もはやミュージシャンはがんじがらめ。この一連の状況がバップ以前のJAZZを衰退させる主因となったと、これは永久に語り継がれる音楽史の事件な訳だよ。(←あくまでも、これは半世紀前の米の話だからな。)で、そんな音楽自体の進歩とは何の関係もない○○方針と関わって疲労してもしょうがないので、パーカーやガレスピーがどうしたかって言うと、曲の構造をそのまま使ってちょいとメロディーのとこをいじくってやった訳でしょ。ようはインプロのとこがメインなんだからね。コード展開があれば、メロのところはちょっと塗り替えでよしとなる。(いやそれが名曲になったんだけどね。)で、このインチキ感覚がJAZZの本質にピッタしはまってたんで、その後ダーっと行っちゃったわけでしょう。

ワシが言いたいのもう解かるでしょ。そうしたビヂネスサイド優先の○○方針からキッパリ逃れるこの新機軸こそは、パーカーやガレスピーらの大発明バップの本質の一部であると言えるワケよね。それ以降のJAZZはこのインチキ魂を確実に受け継いで60年代まで突っ走る訳だよ。もっとどんどんインチキになってくねぇ。おい、それ曲といってもただのコード+a じゃんか、とか。で、それが20世紀の暮れともなると、今度はそれが体よく大芸術ってー事で、いつのまにか手のとどかない遠いところへしまいこまれてしまってる。気がつくと何か知らんけどいろいろ利害が関わる金のなる木になってるようだ。JAZZマイスターたちが生きていたら何人かはこう言うんじゃねーの。「オレらの曲でそんなに稼せいでる島があるのかよ。でも、あれも、ま、もとはパクリだったけどな。」(←嘘)



ASCAPとBMIの話は本多先生のJAZZって本の157ページ辺りから書いてある。ずいぶんホコリを被ってたが掘り出して懐かしく読んだな。ちょっと引用さして頂きますと。(↓)

まことにどうしようもない動きが音楽出版という業務と、放送という業務の間から生まれ、このために、ジャズは手足をもがれた状態になりました。それはそうでしょう。ジャズの生命線とも頼む即興演奏が、そのようなゼニゲバ的論理によって、まったく阻害されてしまったのです。ですから、スイング・ジャズの衰退は、大衆に迎合し過ぎた、つまり、レコードと放送に頼りすぎたジャズ音楽家にその責任の一端はもちろんありますけども、衰退せざるを得ないところへ追い込んだのは、ラジオであり、音楽出版社であったこともまた事実なのです。(JAZZ 158p)

ま、かつての愛人のジェニファーがワシに言うにはだね。今は昔を深く悔やんで必死にやってるの、ほじくりださないで、って〜のは、ようは今の彼氏がどうもIBM社員らしい。IBMってBMIと同じなの?


追加調査ス
ASCAPってーとこ、今はどうしてんのか調べてみたら、こんな記事があったな。ある意味おもろい結末。泣けるまでは行かないもんの、一応マシな話というか、そんなとこ。(↓)

米ガールスカウト連盟は、米著作権管理団体「ASCAP」に年間1ドルの著作権使用料を支払っている。ガールスカウトの活動にはキャンプファイアーが欠かせないが、火を囲んで歌う歌にも著作権があるというのが理由だ。96年にASCAPが著作権の支払いを求めて警告書を送付した際、「非営利団体であるガールスカウトの活動にまで課金するのか」との社会的批判が強まり、厳密な著作権使用料の徴収は断念したが、著作権の存在をアピールする象徴としての1ドルの徴収は今も続いている。http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/special/46/nation14.htm


第八話 ホントにJAZZ喫茶とライブハウスが無くなってあんたら困まらんのかいな?

どんな音楽にもシーンっちゅーもんがあるだろ。だいたい聞くヤツはこのシーンてのがあってこそ始めて数ある個別のサウンドに世界観みたいもんを重ね合わせる事が出来る。それがあって初めて聞くわけだろ。ま、そんなのお構いナシに聞くヤツだってたまにはいるだろうしその方が凄いだろうけど、一般的じゃないよ。この島のJAZZシーンてものが当然ある。あるんだけど、いったいそれを何が支えてるかと言う話だ。

はっきり言って日本にはすばらしい演奏をするJAZZマンがけっこういる。いるが国民の99・9パーセント、それよりさらに100に限りなく近い人数はその存在と実態を知らない。そのほとんどの国民はアヤトチエあたりが日本を代表するJAZZマンだと思ってるか、ヒノテルやナベサダという大御所のイメージを漠然と持っているにすぎないのではないのかな。でも、別にそれが悪いと言ってるわけじゃなくてな、それがニッポンJAZZシーンの現状と言う事よ。で、ワシの言うすばらしい演奏と言うのは、ようは国際水準の独自音楽を言うのだが、そう言う演奏はいつもと言う訳でもないがそれほどマレでもない頻度でこの島でも行われているよな。勿論これはJAZZのフィールドに限っていってる訳ではない。たとえば、三上寛のフランスツアーは彼の地のリスナーに驚きをもたらすに違いない。あれもJAZZでないとは断言できない音楽だ。そんな世界レベルの演奏が行われていても、だいたいハコには客がたいしていないので世界にはなかなかとどかなかったわけだが、状況は徐々にそうでもなくなって来てる。なにせ、世界のアヴァンな耳はこう言ってる。「JAPANの新しい音は何だ?聞かせろよ。」

ワシも、ここ二三年で、西の島のミュージシャンの優れた演奏もいくつか聞いた。エヴァンのエレクトリックユニットはピットインで立ち見だったし、ハンのスーパードラムも聞いた。ミシャも聞いた。素晴らしかった。(ワシが行くのはアヴァンがかったとこしかないので偏ってるけどね。)しかし、同時期聞いた演奏のベストワンはこれを上回って日本のミュージシャンの演奏だな。それはアケタでやってたドラムのヤマザキさんのトリオだ。客はいつもせいぜい5人ぐらいだったよなぁ。まったく金にはならないことを全力で店もミュージシャンもやっているわけよ。ところがそれが世界水準を生み出してる。金にもならず世間のほとんどの人間が知らんと言うのでは、そこに何の意味があるのかとまず当局は言うに違いないわな。それしか思えん思考回路をワシらは愚かだと言っとるのだけどな。マウントなんとかてーフェスがあって、この島もJAZZ文化華やかじゃろーなんて思ってない?あれって結局ハービーとかウイントンとかにオンブってダッコだからちょっとちゃうじゃん?

話は、もう一方なんだが、JAZZ喫茶の問題。JAZZ喫茶と言うのはほとんど儲からないんじゃないのかね?中には儲かってるとこも数件あるのかもしれないけど。だいたいはよくぞ21世紀まで持ちこたえて来たと言う感想じゃないの。じゃぁなんでそれでもそんな商売をやっている意味があるのか。もっと時代に合わせて稼げることをやればよかろうと、島のエリートたるリニアファイターたちは言う訳よ。結局、JAZZ喫茶と言うのは商売の部分半分と個人出資の文化事業半分なわけだよ。結局あのオヤジ連中も自分らもJAZZシーンに組み込まれちまった事の幸運と不運の只中でやって来てるあたり、やはり21世紀まで客のいないハコで世界水準を繋いできたミュージシャンと同じ板の上ということだよ。(しかし、これからはどう動くか分らんゼヨ。我がQQQとJABROID-MUSICだってなー。)



この、あまり客がガンガン来るとは言えぬところのライブハウスと大儲けなど出来そうもないJAZZ喫茶が、経営状況を遥かに越える著作権料の支払いを迫られた結果、どんどん廃業して行くことにでもなった場合、一番困るのは誰かという話の前フリが長くなっちまった。はっきり言って、店もミュージシャンも商売ということであればそんなのは止めた方が経済面から見ればいいっちゅーことになるよな。(知ってる話で言うと、JAZZ喫茶やり続けたいといってるダンナに、とにかく店をたたんでくれとせまるカミサンという構図がある。)客は演奏やってる場所がないのだから聞かないだけであり、小銭を失う事も無くなる訳だ。すると、経済的損害を最も受けるのは誰か?それはワシの考えではレコード会社なのだ。ただでさえJAZZのCD売上は落ち込んでると聞くが、その流れは間違いなく加速するとワシは予想するのである。結局何だかんだ言って、日本のJAZZシーンを最初に起こして、国策からすると、もうホントは息絶えて当然だったそれにリアリティーをあたえ細々と繋ぎ続けて来たものがこの二つの領域だということだよ。それが終りを告げるのはレコード会社側は困るんじゃないの。だって、レコード会社は、まるで今でも60年代がある場所で生き続けてるみたいな、そんな感じじぁ? 美空ひばりや石原裕次郎と同じだな、それでやってきてる。

はっきり言うけどね、こうした個人努力の集積がやっとこさやってるお膳立てに、ちゃっかり乗っかってメディアはJAZZだJAZZだと言ってるに過ぎないのだよ。こうしたちっちゃな努力の総体が今の日本のJAZZシーンなのである。だが、このリアリティはちっちゃイと言ってもズシリとあるところが日本の特殊性といえる。なにせ身銭切って40年やってる連中が作ったもんだからな。メディアが側だけでっかく膨らまして見せとるものなんて聞く耳のあるリスナーは相手になどしとらんのだよ。で、その聞く耳のあるリスナーしかJAZZのCDなど買わんのだよ。

よく考えてみなさいよ。テレビでJAZZが流れるか?ラジオでどのくらいJAZZがかかるっちゅーの?ほとんどかからんでしょ?一般雑誌がどのくらいの割合でJAZZをあつかっとるか?ほとんどあつかっとらんよな。たまーに、正体不明のJAZZ特集見たいのがあるかもしれんけど。たいがい書いてる人間も勉強した方がいいような文面だったりする訳でしょ。じゃ、なにが日本のJAZZシーンに実体性を与えているのか考えてみなされ。60年代、リアルタイムのJAZZのレコードをいち早く入手し、国民に今世界で起こってる音楽の事件を伝えたのはJAZZ喫茶だったろーよ。それ以降もたとえ聞く連中が激減したって、その使命を守り抜いて来ているわけよ。ようは、オヤジ連中自身が筋金入りのマニアってことなんだけどもな。駅前の書店へ行ったら「ジャズ喫茶に花束を」なんて本があったんで、年末に読んでみたのだがな。それは全国9箇所のJAZZ喫茶のオヤジへのインタヴューで、著者の視点はJAZZ喫茶と言う存在とその21世紀までの維持継続が、個人の尽力による奇跡的な文化事業であることを微塵も疑ってないな。やっぱこっちがホントだろと思ったゼヨ。


第九話 いつから方針が変わったかと言う問題だが。

ある状態をAとして、もうひとつのある状態をBとするとしよう。Aは○でBは×である。しかしAとBは状態としては全く同じものだ。じゃ、なんで一方が○でもう一方が×なのかというとだ、それを言うやつがそう決めたからだ。最初Aだった時、問題なく○だったが、或る時からそれは×になったので定義上Bといったまでのことよ。

JAZZ喫茶でレコード片面かけるごとに著作使用料を当局に支払らわねばならんという発想は、60年代の全JAZZ関係者の脳裏には存在しておらなかった。それは当時の書籍を読めば良く分る。むしろ、JAZZ喫茶こそ新譜の発信基地としてレーベルもたよりとするところであり、客もミュージシャンも国内津々浦々張り巡らされたシーンの拠点と認識し、尊敬こそすれ、その本質が犯罪だなどと思った者はおらんかっただろ。ところが、ずーっと同じ事をやっておるのにある日突然あんたらは犯罪をやっとると言われる。だとすれば、この全体状況を次の二つの可能性で分析する必要があるとさっき風呂入りながらぼちっと考えたワシ。

[視点その1]
勿論60年代もそれは犯罪だった。
(↑)
であるとすれば、全体状況をこう推測するのが自然だろう。60年代既に当局はホントは犯罪だと思っていた。思ってはいたが、世論がそれを認める様子はまず無い。多勢に無勢で、主張しても無駄だと判断し容認していた。よって、時代が去った今となって本来の主張をしているということ。

[視点その2]
60年代当時は犯罪ではなかったが、現在にいたるある期日より犯罪となった。
(↑)
60年代頃にはそれを犯罪とする法解釈は存在しなかった。当局もそれを犯罪とは思っていなかった。ところが、60年代から今日に至る或る時期、法律の変更または新たな法解釈がおこり明確に犯罪行為と定義された。

と、主にこの2つの可能性が在る訳である。

1が真実だとすると、国民としては以下の疑問を持たざるを得ない。つまり、当局は60年代当時たとえ世相がどうであれ、正しいと信じる法的な理念があるのであれば、なぜ公にそれを流布する努力をしなかったのか。それをやっていれば、今日当局が言っているような犯罪行為は存在しなかったかもしれないし、社会全体も当局が思う著作権に関する誤った理解を持たずに展開していたかもしれぬではないか。

2が真実なら、現実的に大きな転換が起こったその時を契機に、当局は国民生活を根底から左右するこうした出来事に関して、可能なあらゆる媒体(TV、ラジオ、雑誌、新聞、など)を用いて国民に詳細に伝達し啓蒙を図らなかったか。それを行っていれば、今日当局が言っているような犯罪行為は存在しなかったかもしれないし、社会全体も当局が思う著作権に関する誤った理解を持たずに展開していたかもしれぬではないか。

いずれが真相であるにしても、当局が60年代JAZZシーンが勢力を持っていた時期にはほとんど何も主張しなかったにもかかわらず、シーンが勢力を失って後に事を起こしている。一貫した姿勢が国民側からはうかがえない。JAZZの文化的意義を継承しようと努力している側面は一切無視して、当時をささえた店舗に対して訴訟を行うとまで通達しているわけだ。1であるにせよ2であるにせよ、今日にいたるまでのある時に、当局は当局側が現在主張する著作権に関する認識と、60年代当時は社会常識であった国民のレコードを聞く行為に関する認識のギャップを埋めるべく、相応の努力をする必要が当然最初にあった。しかし、それはついぞ行われていないではないか。行われているとすればあまりに不十分である。未だ多くの国民は何で買ったレコードかけて犯罪なの?と思っている。それを知らない事が問題だと言う者もある。そのことを全国民に啓蒙する責任が在ったはずの当事者がその努力を怠ったため、その結果として異なる認識を持つに至った側の観点(経営実態に即して徴収して欲しい)を一切聞き入れず、自己主張を推し進めるのはフェアな行為なのか。徴収した金銭がその後どのような仕組みを経て権利者に渡るかの組織の社会的素性も含め国民が納得できるあり方を提示できて後、初めてスタートラインじゃなかったのかね。



いや、再三の注意を店側には行ってきたのだと当局は言うかもしれない。であれば、10年の過去分を払えと言う以上、その10年間の再三の注意の記録を書面として公に提示すべきところだ。その際の再三とは、たとえば10年の最初の上半期から始まっているべきで、再三と言う以上年間最低30通程度は書面を送り (しかし、ハガキ一枚送るぐらい何の苦もないからな)、最低月に一回程度は店に足を運び対話を行い当局の主張を伝えるような努力を行って初めて言えることだな。再三とはそのぐらいを言うのであり、10年の過去分の徴収に際して、万が一にも告訴の2年程度前が最初の注意などとか、よしんば10年前からやってるとしても年数通の書面の発送程度ではスジは通らないと思うが。もし、店をたたんでも支払う犯罪だと言うのであればそうでしょ。ワシ自身は小さなJAZZ喫茶の経営者がレコードかけてJAZZを伝え続けた40年を少しも犯罪だなどとは思っておらない。じゃあ、今後それを誰もやらなくなったら、あんたらこの島でJAZZを後世に伝えぬく技量があるのか。

徴収するとしても経営実態を考慮した特別枠を新たに設けるべきだ。最低枠が100人からになってるのでそれで計算するなどありえないでしょ。もともと設定自体が社会状況に見あっておらないではないか。



追加調査
著作権法改正がやはり1970年にあったのだね。それ以前は支払い義務無し。1970年からJAZZ喫茶のような音楽を聞かせることをうたった店は支払う義務があるとなった。でも、一般の飲食店と区別する定義は、読んだ限り歯切れが悪いスワ。


第十話 世界シーンでのJAPAN-SOUND

あるサイトへ行ったらあったリストをコピペ(↓)。

Wire誌の2003年ベストアルバム インプロ部門
Limescale / Limescale (Incus)
Tetuzi Akiyama,Toshimaru Nakamura,Taku Sugimoto,Mark Wastell / Foldings (Confront)
Andy Moor,Thomas Lehn,John Butcher / Themal (Unsound)
Exias-J / Electric Conception "Avant-garde" (PSF)
John Butcher / Invisible Ear (Fringes)
Rhodri Davies / Trem (Confront)
Sealed Knot / Surface Plane (Meniscus)
Keith Rowe & John Tilbury / Duos and Doris (Erstwhile)
Tim Barnes,Toshio Kajiwara,Marina Rosenfeld / A Water's Wake (Quakebasket)
Matt Davis,Phil Durrant,Mark Wastell / Open (Erstwhile)
Kaffe Matthews,Andrea Neumann,Sachiko M / In Case of Fire Take The Stairs (Improvised Music From Japan)
Keith Rowe,Thomas Lehn,Marcus Schmickler / Rabbit Run (Erstwhile)




今年は随分いろいろこっちの連中がピックアップされてるんだなぁ、Wireの年間ベスト10。ところで、Wireってイギリスの雑誌スカ?やっぱ、日本のコンテンポラリーミュージックのパワーには加速がついて来たことは確かだな。世界の耳がJAPANの今を聞かせろと言ってると書いたが、マジでフカシはないんだよな。10のうち4つもジャパンがらみだとはさすがに驚いた。島内の文化施設の世話なんかならなくても十分世界水準でやっていけるってことなんだよな。でも、別にここでピックアップされたアーティストだけが飛びぬけて凄いと言う感想もワシには無いな。前に書いたように世界水準の演奏は常々行われているぜ。この状況はギリギリ自前でやって来たミュージシャンとハコとの共同作業の結果だ。21世紀、今じゃ、こっちのハコも世界と通通になってるワケだ。米ではJAPANOISEというのは、最早、ひとつのジャンルで、米だけのメンバーでやってるJAPANOISEバンドってーのがあるんだと聞いた。リアルタイムでノイズはmp3で世界にバンバン広がってるよな。これはネットにもっとも合ったジャンルかも知れん。実際オモロイもんがネット上にむちゃくちゃいっぱいあるわ。

西の方では、コンテンポラリーな勢力が銭金に関しては如何にマイナーな領域だと言っても、むしろそれが先進的なアートの必然としてある以上、巨大なポップス領域と同等の扱いを行ってるだろーよ。BBCのサイトでは何人ものインプロバイザーが国を代表する芸術家として取り上げられてるよな。
http://www.bbc.co.uk/radio3/jazz/jon3/freedom/fochome.shtml
http://www.bbc.co.uk/radio3/jazz/jon3/freedom/focprogsat.shtml

どんなに世の中がMONEYMONEYでガチガチっとなってきても、むしろそのスジで生きるヤツラこそが、先進のアート領域の重要性を良ーく分っている。ようは連中にはこういう視点があるとワシは思うわけよ→。たとえばポップスの枠の中だけでシーンを常に膨らまし続けられるなどと考えているヤツはついぞおらんだろう。なぜなら、そのシーンを活性させ花を咲かせ続けるには、一方ではそれとは一見逆行するかに思え、取るに足らないかに思えるような、そのこと自体からはたいして金が生まれそうも無いような、そんな正反対の音楽領域が同じ板の上に(巨大な文化の板よ)存在してなければこっちも成り立たないっちゅうこと、これを西の連中はよく分ってるんだよな。そりゃ、振り返って歴史を勉強して見リャ当たり前だろ。たとえば、ドルフィーでもコルトレーンでもいいんだが、あんな偉業を成し遂げたって、生きてる時はやはりマイナーであり、耳のある人間たちだけがその可能性を信じて取り上げていった訳だよ。そうやって、新しい事件が世界に拡大していった訳だろ。そういう流れが起こって、今度は他のシーンからそれを受けた全く新しい観点の表現者どもが出現しはじめる。この作用によって各シーンはテンションを維持できるのだからな。もちろん、こんな事が分野を越えて起こり続けるのがアートであって、つまらん頭で分析してこれ以上のことをやろうと思っても、そりゃはじめから太刀打ちできないわけだ。既に出来上がっとる攻略本を吟味して見あうものだけ探して、それから何かやろうとしてる限りは、いつまでたっても遅れたチームになるしかない訳だろ。そう言うとこは、往々にして一定のマニュアルを確立し運営する事に重要性を見出してしまうんでな、結局常に新しい可能性を排除し続けている結果を生んでいるというこっちゃな。それじゃ、確実に衰退していく必然にあるだろう。こんな当たり前の視点すらも、未だ分らんままに今日まで来て文化国家伝々を言っとる島の現状ではどうなのかね。今からでも真面目に考えてみることを勧めるけどな。この国の明日のために、マジでここいらは協力的意見で言ってるわけだよ。

(第一章 終わり)


第二章へ続く

2004年頃、去勢を張って書いた文章なんですが、今となっては全て残骸。
傲慢が過ぎた箇所(当時は必要でもあったんですが)一部削除致しました(反省


文化庁の報告書を読んだワシの意見